『アートで候。会田誠・山口晃 展』続き

先日のエントリー*1に対し友人から、括弧つきの『現代美術』の文脈を意識しすぎる、と指摘があった。職業評論家であるわけでもないのだから、素直に絵に対し感動を表現すればいいのではないかと。

ぶっちゃけてしまえば、私はこの展示を見て、そのコンセプト(モチーフ・経歴・戦略等々)を無視して剥き身の絵画として対峙したときに、彼らの作品に感動を見いだせなくてうろたえたのだ。

『現代美術』を『現代美術』たらしめている文脈を無視して鑑賞する行為の恣意性も判っているけれども、正直、会田氏も山口氏も何度も見ていると、もはやコンセプトに新鮮味も驚きも感じられない。これはキュレーターの責任でもあろうが、旧作の展示方法がなおざりで、ただそこに作品を並べただけで、照明や空間、鑑賞のストーリー性への工夫が感じられず、どうしても絵画そのものへと意識を向けざるを得ない状況になっている。

それが『上野の森美術館』という場所のオーラのせいなのかはわからない。けれども今回の展示の雰囲気は、『二科展』とか『日展』とか、あるいはよくデパートでやっている、入り口の花と老人がやたら目に付く『なんとか美術会展』の類、訪れる人が既に文脈やヒエラルキーを共有していて、従って展示自体は極めてフラットに、ただただ絵画を絵画として提供する場所に似ているのではないかという気がした。

裏を返すと、普段自分が美術の何を見て、良いだの悪いだの言っているのか、その根拠の脆弱さを問われているわけで、それははなはだ居心地が悪く、展示のせいだのキュレーターが悪いだの言って誤魔化そうとしているに過ぎないのかもしれない。けれども、絵画としての会田氏への感想は『器用な人だなあ』で終わってしまうのだから仕方がない。山口氏の絵は精巧な模型や、時刻表的な読み込む楽しさがあるので鑑賞することは楽しいが、ならばもう少し、落ち着いて見られる環境作りが必要なのではないだろうか。

今回が両氏の回顧展的位置づけであり、初めて二人に触れるお客さんを対象にしたものだと割り切れば(ネット上では「面白かった」「絵が上手かった」という素朴な感想が多い)その意義もわからないではないが、両氏がこれまで醸し出してきた、非主流派ゆえの捻くれたオモシロさは、主流と見なされかねない今回の展示の中では、完全に空回りしているように見える。

そんなわけで自分は、会場で制作中の両名の新作に、自身の居心地の悪さを勝手に投影しつつ、絵画としての魅力を読み取ろうと試みるのだった。

以下、同日の会田氏・山口氏によるトークショーから、うろ覚えながら気になった発言を引用。

山口氏、会場で制作中の『渡海文殊』について

「明治のころ、それまで小さな絵しか描いたことのなかった画家たちが、西洋の宗教画をみて興奮し、やたらでかい日本の神話をモチーフにして描いちゃった絵がある*2
その波の造詣が作り物じみて面白くて、じゃあそこにIDチップをはめ込んでみたら、と思ったんです」
http://aida-yamaguchi.iza.ne.jp/blog/entry/178484/

それを受けて、会田氏の、同じく制作中の『滝の絵』について

「(滝の前に女の子が配置されている絵の)女の子なんかはどうでもいいんですよ。僕は、滝が描きたい。水しぶきが書きたいんだけど、あれがなかなかうまくいかない」
http://aida-yamaguchi.iza.ne.jp/blog/entry/174993/

*1:http://d.hatena.ne.jp/beach_harapeko/20070527

*2:『原田直次郎《騎龍観音》』等か?http://www.momat.go.jp/Honkan/Modern_Art_in_Wanderings/index.html