小西真奈展『どこでもない場所』

f:id:beach_harapeko:20071105104013j:image

『二時間ほど歩いた頃から、あたりの風景は何だか異様に凄くなつて来た。凄愴とでもいふ感じである。それは、もはや、風景でなかつた。(中略)昔から絵にかかれ歌によまれ俳句に吟ぜられた名所難所には、すべて例外なく、人間の表情が発見せられるものだが、この本州北端の海岸は、てんで、風景にも何も、なつてやしない。点景人物の存在もゆるさない。(太宰治『津軽』)

津軽半島北端の竜飛崎。太宰の言う悽愴たる辺境の地というイメージとは裏腹に、私が訪れたその日は快晴ということもあって、麗らかな日差しの中、観光バスが連なり笑顔の観光客がお土産屋を冷やかし、『津軽海峡冬景色記念碑』からは石川さゆりの歌声が漂ってくる、そんな弛緩した空気が流れている。

ただし太宰が訪れたのは、灯台やホテル、青函トンネル記念館が連なる岬の頂きではない。そこから急で細い階段をひたすら海に向かって下った先、崖と海とのわずか数十メートルの隙間にしがみつくように家々が建つ、曰く『鶏小屋に頭を突っ込んだ』ような漁村で、そこに降り立ち、ほとんど路面に接するほど水位の高い海と、帯島なる奇怪な巨岩を眼前にすると、一刻も早くそこを立ち去りたいという恐怖を感じる。

むき出しの自然に、独りきりで対峙するのは、私には恐ろしいことなのだ、と知る。

小西真奈の描く風景は、かならずしも悽愴だったり荘厳だったりするわけではない。霧に包まれた妖しい表情を見せることもあるが、暖かい日差しにゆうらりくるまれた空気の色をしていることが多い。

にもかかわらず、彼女の絵から私は、独りきりで自然に対峙するときの恐怖を感じ取るのだ。彼女の描く奇怪な岩や山、霧につつまれた森の前景には、後ろ姿の人物がはかなげに配置されている。彼ら、影のような所在ない「動き」は、自然の「不動」を際立たせることになる。決定的に人間に無関心で、全く別の時間を過ごす永遠普変の存在としての自然。

本来そうした存在を『人間の表情が発見せられる』モノに変換し飼いならすことが絵画の目的であったはずだのに、彼女の絵画は、まるで人が無防備に自然を目にしたときの感情をこそ、絵画に封じ込めているかのようだ。

その感情が恐怖なのか、畏敬なのか安心なのかは鑑賞者によってまちまちなのだろう。たぶんそれは、それぞれの人が独りでいるときの、気持ちに近いもののような気がする。


小西真奈「どこでもない場所」

TAB紹介記事
http://www.tokyoartbeat.com/event/2007/8471

art-index.net紹介記事
http://www.art-index.net/art_exhibitions/2007/10/post_67.html

会場 ARATANIURANO
2007年10月27日 〜 2007年12月01日
http://www.arataniurano.com/

会場 第一生命南ギャラリー
2007年11月02日 〜 2007年11月30日
http://www.dai-ichi-life.co.jp/company/activity/bunka/gallery/south.html