『アートで候。会田誠・山口晃 展』(上野の森美術館)

激しく会場との違和感を感じた。会場の、施設の古さ、に。

なにも自分はいつも小奇麗な施設でしか美術鑑賞をしない、というわけでもない。六本木に行ったことはないし、木場は一回しか行ったことがないが、竹橋は年に数回くらいは行くし、割と好きな場所だ。古びたビルの一角の画廊にだって、時に思いもかけない絵との出会いがあったりもする。
だからと言って、美術は作品そのものの価値こそが全てであり、それを取り巻く環境−−−設備や照明から、作家や作品に付帯する情報まで−−−に評価を影響されるべきではない、とまでは考えない。

普段はそんなことを考えることもないのだが、今回はなんだか施設を含め、展示そのものがどうにも安っぽく思え、そこが気になりだすと、どうも作品に集中できない。いや、特に会田誠ゾーンや山愚痴屋澱エンナーレに関しては、その安っぽさまでが狙いなのだろうということはなんとなく想像もつくのだが、それが戦後昭和の姿かたち匂いを色濃く残した会場に置かれると、安っぽさを現代美術にしていた現代と言う背景が消え失せ、その学園祭的なガジェットの表面ばかりが無惨に露呈してしまう*1

安っぽさでいえばしかし、もっともっと小汚く、ヒトもわんさかいる劣悪な環境で、会田誠のうんこだらけの落書きのようなものを見て、エラい衝撃を受けたこともあったし、逆に山口晃は、権威と昭和の塊のような三越美術館で同じ作品を見たときのほうが、今回より何倍も素晴らしかったと思う。

トークショーで会田が「僕らが現代美術のツートップと呼ばれるのはおかしい。現代美術にはちゃんとメインストリームがあるべきで、僕らのようなスタイルは傍系」と、冗談半分(?)語っていたが、日本現代美術の傍系である(べき)という文脈が彼らの評価の多くを占めているとすれば(傍系であるからこそウンコでいい、とか、傍系であるにかかわらず権威あるデパートで個展が開かれる、とか)そんな二人が母校のある、誇りある(埃臭い)上野の森に、主流として配置されるその居心地の悪さこそ、会場を覆うの違和感の正体なのかもしれない。

会田、山口共に会期中に、あたかも日本美術の王道を行くかのようなモチーフの巨大画を、会場で制作している。その二枚が最後にはどのような姿になっていくのか。良い歳をしてまたしても卒業制作をさせられているように見える二人が、それだけは今、なかなかに興味深いのである。

http://www.ueno-mori.org/special/aida_yamaguchi/yamaguchi.html

*1:資料写真で「読売アンデパンダン展」や、草月ホールなどで行われている、むかーしの前衛藝術を見た時に感じが近い