『13の顔を持つ男 −伊丹十三の軌跡−』(日本映画専門チャンネル)

勝手な思い込みだが、伊丹十三は厳然として『僕の伯父さん』なんである。父親の書棚にあった伊丹十三の文庫本を手に取った中学生の日々以来、自分のおよそあらゆる価値観は、あの洒脱で含蓄のある文章の影響を受けまくっている。いや、いたはずだ。
あれから何年もたち自分も年をとり、愚鈍で浅薄な人生を送る毎日で、すっかり彼のことを忘れていたら・・・ふと目にした番組で、伯父さんの幽霊が帰ってきた、そんな感じだった。

番組で主に紹介されていたのは、伊丹十三が40代前半に手がけていたドキュメンタリー番組の数々。それらはあるいは旅番組のはしりであったり、ドキュメンタリーとフィクションに関する先駆的な実験であったり、最新技術への抑えきれぬ好奇心が稚気溢れる映像を生み出していたり・・・それらの制作にあたる、映像での伊丹の表情がこの上なく嬉しそうだ。当時を振り返る数々の関係者の証言もまた、伊丹がこの時期『テレビ的な表現』に如何に精力的に関わったかを物語る。

伊丹を惹き付けていたもの、それはテレビの『自由な表現』であることが、番組を通じて浮かび上がってくる。規正の枠組みを壊し、自らが好奇心のままに現場に赴き、その興奮と感動を臨場感を持って伝えること。伊丹はそれを心から楽しんだが、しかしその一方で、その自由さを護るために彼が引き受けた心の翳りをも、番組は映し出そうとする。

彼は自由のために映画を作る。それは作り手の自由さが、見ている人に伝わるような自由さだ、と伊丹は言う。その責任を果たすためには、ヒトは大人にならなければならない、と。
そうして伊丹伯父さんは、同じく40代を迎えた僕にこう言うのだ。人生は退屈だから、好奇心の赴くままに違う自分になる自由を持て、その為に大人になれ、そして孤独に耐えよ、と。

勝手な思い込みをもう一度書く。中学生から読んでいた伊丹伯父さんの文章が、やがて中年になる僕らのために、今日この日のために書かれていたことを知りました。軽妙と蘊蓄の下にある、伯父さんの強い勇気に、今日、僕は涙しました。

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