『綺譚集』津原泰水(集英社)

綺譚集

綺譚集

ときに画面の描写が物語を語るその目的から逸脱して、描写そのものがあらぬ方向へ観客を誘って行く類いの映画がある。役者の存在感であるとか、風景の力であるとかカメラに捕えられた事物の存在感の中に存在し、ただしかし漫然とカメラを回すだけでは決して定着することのないその何かを、描写し尽くさんという意志が物語世界を破綻させながらも異様な迫力を生む瞬間。そう書くと過激であったり奇怪であったり意味不明のシークエンスが続く類いの映画を賞賛しているように思えるが、しかし例えばネストール・アルメンドロスを撮影監督に起用した、初期のエリック・ロメールにおける、風景や少女を、あたかも絵画として捕えてしまおうという明確な意志が、匂い立つような色香を振りまいているそんなさまであるとか、行定勲と篠田昇が技巧の限りを尽くし、日本映画の描写のコードを全て刷新する為に気の遠くなるまでにフィルムに主演女優を納め続ける行為であるとか、凡なるストーリーの背後で全く別の意志が観客を揺り動かしてしまう類いの映画に私は惹かれるし同時に何か薄ら寒い物を感じてしまう。
『奇譚集』に納められた短編『ドービニィの庭で』に、それと似た背筋の寒くなるものを感じた。ゴッホが晩年に描いた庭の風景を自宅の庭に再現せよと、主人公である装飾家に依頼する資産家の話だ。主人公はその性に二重性をもち、自分とそっくりの外観を装い資産家に近づこうと企む妹を厭わしく思う。その資産家も祖父の財産を受け継いだだけの、いわば祖父の偽物であり、さらに庭のモデルとなった絵画も贋作である可能性がほのめかされる。偽者達は庭の再現に血道を上げ、やがてその行為のために破滅していくのだが、彼らがそれほどまでに手にしたかったものについて、作中ではある示唆がなされている。
ここで引用する事は控えるが、その、絵に描かれた風景を庭に再現するという行為が、小説や映画で物事を描写することの比喩になっているのではないかと思い至ったときに、その禍々しい動機が、なるほどそれらの描写が持つ恐ろしさの原因であったのかと気付いた。見え見えの書き方をしてしまうが、よく考えの浅いドキュメンタリー作家が語る『対象を生き生きと文章・フィルムに定着させたい』などという美辞麗句とは全く正反対な、傲慢で暴力的な略奪行為をもってして、対象から暴き出した“それ”の匂いこそが、描写するという行為から得られる最高の果実であると、おそらくあの連中は確信しているに違いない。