磯崎新講演『ターニングポイント;空間から環境へ 万博 ポストモダン』

神奈川近代美術館で開催中の『メディア・アートの先駆者 山口勝弘展』の関連企画である連続講演会、『戦後日本における芸術とテクノロジー』の第3回である、磯崎新の講演『ターニングポイント;空間から環境へ 万博 ポストモダン』を聴きに行く。

1997年に水戸藝術観で行われた日本の芸術1960s 前期展覧会『日本の夏1960-64 こうなったらやけくそだ!』で、64年という年と、それ以前を“夏”と名付けることを提起したのは磯崎氏であるという。

50年代半ばに大学を卒業した磯崎氏は、今ふうの言葉で言えば“都市(環境)指向の建築家”を志したのだという。しかし、当時の日本には(世界にも)そのような職業もなくまたアーバニストいう概念もないなかで、氏は、一部前衛的な音楽家の早い動きに引き寄せられ、『遅れて来た観察者』として、ネオダダの萌芽に立ち会ってきた。

氏の眼に映ったネオダダは刹那的だった。都市のあちこちで、花火のように、突然あらわれ一瞬ののちに消えていく、ゲリラやテロリズムのような行為。
『記録することは、はしたない』とばかりに、その儚さを誇る人たちの若き芸術家集団が、同時多発的に日本中で立ち上がり、『日本の前衛』の諸相を形作っていく。

その熱いムーブメント、日本の前衛の夏は、読売アンデパンダンが打ち切られるに64年に向けて、『藝術・反藝術議論』として加熱していく。
磯崎氏は、その議論に終止符を打ったのは、64年の針生一郎による『藝術の消滅不可能性の論理』であるという。すべての『反藝術』であれそれは『藝術』にすぎないのだというトートロジーが示されたことで、ここに議論は限界を迎え、これ以降、日本において『前衛』というものは、すべて、共産主義の社会主義的前衛や、20世紀初頭のモダニズムの表面的な模倣、“前衛的”という形容詞になってしまった、と磯崎氏は指摘する。

さらに磯崎氏は、そのような議論とは別に、彼なりの『前衛』の限界を、アメリカ的な『実践』から乖離した日本の藝術をめぐる状況に見て取っていた。

磯崎氏は、ネオダダのメンバーのなかで、後にアーチスト指向をもってニューヨークに旅立った荒川修作や、すべての事件を記録する視点を持った赤瀬川源平らに、前衛以降の藝術の行く先を見る。

『行為』がすべてであると考え、記録や構築に無頓着な前衛芸術に対し、そもそも具体的な構築活動や、商業性から離れられない建築家であった磯崎氏が、64年の断絶を境に、現代美術を社会化することを目的として、周囲のアーチストを巻き込みながら『万博』に邁進していたのは、氏なりの藝術への批評でもあったのだろう。

磯崎氏が大阪万博の実質的な美術プロデューサーに就くにあたり、パートナーとして招聘したのが、山口勝弘だった。65年に開かれた山口氏の展覧会での、ガラスを用いたインスタレーションに触れた磯崎氏は、それまでの金属など重さのある素材を用いた彫刻作品とは異なる、軽い、光そのものが存在感を示すようなそのテクノロジーアートのコンセプトに、空間から環境へと移行する建築界の動きと同調するものを見たのだという。

磯崎氏は、『お祭り広場』や『三井館』に代表される、水や光、テクノロジーといった抽象的なエレメントを、『万博』という祝祭空間の中心に配置するというコンセプトを打ち立てる。それは現代美術が社会化するための、新たな視点として『万博』を利用しようとする一大実験でもあった。

しかし、いままで誰も経験したことのない『万博』という経験は、氏に、後に『戦争へ協力したような疲労感』と言わしめるような、混乱と激務の日々だった。
予算の超過、経験不足。限界を超えるアーチストのイメージは縮小を余儀なくされ、鳴り物入りで設置された最新音響設備は使いこなせる音楽家がついに現れない。

アーチストは、自らが全てを取り仕切らねば気がすまない気質であるがゆえに、大きなプロジェクトの前で限界を露にしてしまう。しかしその一方で、この『万博』の混乱の中からは、後に発注藝術と称される、建築家的な分業の手法を持ったアーチストたちが生まれてきた。

山口勝弘という『広い手法を持っている人』とのコミットの理由は、まさにそこにあったのだとのだと磯崎氏は言う。

この後、『万博』と関連のあったアーチストたちから、積極的に他分野と交流を持つ人たちの潮流がはっきりと枝分かれしていった。たった6ヶ月で消えてしまうイベントから、日常的なイベントへ、純粋なアートから、社会性・政治性を持った藝術へのシフトが、あの混乱からは生まれてきたのだった。

さて、『万博』の数少ない整理された資料については、椹木野衣の『戦争と万博』があげられる。私の世代には、むしろ磯崎氏のアーチストとしての仕事は椹木氏経由で知った人が多いのではないかと思われるが、ちょっと面白かったのは、磯崎氏はこの椹木氏の著書をあまり面白く思ってはいなさそうな点で(笑)その労力は認めつつも、整理が単純、と批判する。

特に、椹木が『戦争』をメタファーとして持ち出し、藤田嗣治らの手がけた『戦争画』に対となる『万博アート』という概念を提唱したことに対しては、多くの関係者が大きな万博という目標に向かっていたわけではないと疑問を呈した上で、逆に『戦争』を例えに出し『陸軍に対して興味のある人、空軍のことを知っている人、情報戦に詳しい人が、それだけで戦争全体を把握したと思い込むようなもの』と手厳しい。

磯崎氏は、現代美術史がいまだに未整理であり、それが過去において日本の美術界が、プロモートを生業とする批評家やジャーナリズムを生んでこなかったという構造的な問題に発していると指摘する。

ここ40年、世界中で生み出されてきたアートは、すべて読売アンパンの『無名の人々』によって、既に生み出されていたと磯崎氏は憤る。自分が数々の本を執筆してきたのも、誰も海外にむかってプロモートして来なかったからだ、とも。

磯崎氏は、椹木氏をはじめとする批評家に、もっと国際的たれと檄をとばしているのだ、きっと。
そしてその先駆者たる、山口勝弘を、今こそ見よ、と。

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2005/yamaguchi060120/index.html



戦争と万博

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