『総特集 西尾維新』(ユリイカ9月臨時増刊号)

昨年の11月に行われたという、西尾維新東浩紀の対談が収録されていて、その中で東浩紀
『アメリカ的なものの侵入が「ポスト・ムラカミの日本文学」を作り上げたという』独特の文学史観に基づき、『「新本格魔法少女りすか」を読んだとしたら、まず確実に「長崎」というので「核」の問題を考えると思う』と指摘されていた仲俣暁生が、その直後に載った文章中で、まさに

だとすれば「長崎」に落とされた「核」とは、たんに核兵器のことではなく(中略)「アメリカナイゼーション」の比喩なのだろう。

と書いていて笑ったのだが。
いや、それよりも。

仲俣暁生のその『アメリカ的なものの侵入が「ポスト・ムラカミの日本文学」を作り上げたという独特の文学史観』は、彼の加担する作家に対して、有効な解読の切り口を与えているのは確かだと思う。舞城王太郎星野智幸などは意識的にその『侵入』を描いていると思うし、阿部和重はそういう切り口に敏感な評論家に向けてのみ小説を書いているくらいだと私は思っているけれど、ここでは作家と批評家、読者の大部分が、同じ問題点を共有しているのじゃないか。

ポップカルチャーをふくめた日本の戦後の表現活動全般に対して、『アメリカ的なものの侵入とそれへの相克』が影を落としていると、椹木野衣が『日本・現代・美術』で著わしてから、その『相克』へ自意識過剰になるところから、なるほど新しい表現は出てきているとは思うけれども、しかし、しかし。

正直、仲俣暁生がいかに西尾維新を解読するのか、読み始める前は期待したのだが、『アメリカ的なものの侵入と相克』という構図を西尾作品の上にあてがってみたものの、なにかその論は小説の表面ばかりをなでてしまって、とりかえしのつかない大事な部分に、触れられていない、そんな感じなのだ。ここでは、上に書いた『作家・批評家・読者』の三角形から、『読者』がすっぽりと抜け落ちてしまっているのだ。

たとえば同書で円堂都司昭がいう

社会全体が共有しうる価値観が崩れ、それぞれがそれぞれのリアリティで生きざるをえない(中略)そうしたリアリティの水準の混乱を、自らの痛みのように表現する小説も書かれている。それが、西尾らの作品だ。

などという一つの解の方がしっくりきたりもする。

文章を発表し生活の糧を得るということを生業とする人たちが、その発言に追うべき責任というものをもちろん加味しなければならないから、批判、ということはしないのだけれど、『新本格魔法少女りすか』について思いを巡らすとき、『小学生』『女子』『長崎』『カッターナイフ』『血』というキーワードから当然のように想起されるあの事件について、いっさい触れずにすますことは出来ないのでないか、というのが、本書にざっと目を通した時点での思いである。

そういった事件が起こるたびに、特定のカルチャーに属する作品群なり、インターネットを巡る紋切り型の文章がメディアに登場する、という現象自体がすでに紋切り型といえるほど、世の中にははっきりとした世代間格差がある。それを「近代」対「現代」という構図と言い換えることもできるだろう。
(例えば、先にあげた仲俣暁生氏の今日の日記http://d.hatena.ne.jp/solar/20040918#p1における、古田VSナベツネの戦いに対する問題意識なんて、膝を打つくらい面白い)

けれども、この構図では、仲俣氏をも含めた西尾維新以上の世代【現代】と、西尾維新を挟むように存在するそれ以下の世代【未来】との断絶を語ることは出来ないのではないか。

いや、有り体に言えば、それは我々世代には実はわかりようのないことで、西尾維新を読むこととはつまり、彼の作品を挟んで向こう側に、なにか言語化され尽くされていない自意識のようなもののフツフツをかろうじて感じる、ということなのかもしれない。

『おじさんにはわからんもんね』と言ってしまえば、『人を殺すガキは死刑だね』と言ってしまえば。
『巫女子ちゃん萌えー!』と言ってしまえば、『ネヴァダたん、ハァハァ』と言ってしまえば。

そのどちらにも振り切れない、そんな中年の自尊心と自意識が実はいまとても危うい日本で、西尾維新を読むことで私は均衡を保ちたい、正義と良識と【カッコイイ】ということの。