『スリザー』(ジェームズ・ガン)

バッドテイストの快作。ゾンビと物体Xとドリームキャッチャーを掛け合わせたような、粘液と触手と内蔵でおなかいっぱいな映画なのだけれど、らんちき騒ぎとも言えるこの惨劇の舞台が、アメリカ西部の片田舎であるというのが、説得力を持っていて素晴らしいと思った。

冒頭のシーンで、街のメインストリートにたむろする、いかにも貧しく無気力そうな住民たち。路上で酒をあおり、つばを吐き、何をするでなく視線を泳がす彼らからは、平山夢明がいうところの『狂気の温床としての思考停止状態』が漂っている*1

口汚い罵り言葉しか発せない市長に代表される、無気力・無関心・鈍感という言葉の似合うこの共同体の中で、ひとりの人間の中の狂気が密かに育くまれていく・・・と図式はそのまま、エド・ゲインたちアメリカン・キラー・ヒーローを生んだストーリーで、つまりこの映画はまた、「悪魔のいけにえ」に連なる、シリアル・キラー・モンスター映画でもある。

実際、宇宙人に最初に取り憑かれる俳優は、かつて実在の殺人鬼、ヘンリー・リー・ルーカスをモデルにした映画で主役を演じていた。宇宙人は取り憑いた男の妻に異常な執着を示し、その男の執着がまた、怪物に襲われてゾンビ化した住民たちに伝染して、集団ストーカー状態になってしまうのが可笑しい。

怪物の家はまさに「ストーカーの果ての異常快楽殺人者の部屋」の特徴を示していて、人間・動物の死骸その他もろもろのゴミが、動物の巣のような態をなしている一方で、想いを寄せるヒロインの写真が大量に壁に貼ってある聖地のような箇所もある。アンバランスで気味の悪いことこのうえない。

そんなアメリカの狂いが、そもそも怪物的な宇宙生命体を呼び寄せたのだという背景が透けて見えるからか、次々と怪物の毒牙にかかる住民たちに、一切の憐憫の情は浮かばないように演出がされている。不用意に怪物の現前に飛び出してまっぷたつにされる奴。「アニマル・プラネットにこんなの出てこなかった!」とか言う奴。愉快そうなゾンビ家族に取り囲まれる娘。ゾンビばあさんに「この共和党員のろくでなしめ!」と言われて食われてしまう男。すべては彼ら普段の思考停止が引き起こした間抜けな災厄のようで、感想もただただ、「あーあ、やっちゃった・・・(呆)」の一言*2

もちろんボスキャラが倒れようとも、彼ら住民への断罪がリセットされる訳でなく、夜明けの街に死屍累々のラストシーンは小気味よい。それでこのシーンは監督の出世作『ドーン・オブ・ザ・デッド』に繋がっているわけだ。狂気と表裏一体の惨劇が拡大していく、あのプロローグに。


「狂い」の構造 (扶桑社新書)

「狂い」の構造 (扶桑社新書)

*1:『「狂い」の構造〜人はいかにして狂っていくのか?〜』平山夢明春日武彦

*2:『「狂い」の構造』では、まさに「あーあ、やっちゃった」的犯罪事例から、狂気の温床=思考停止を読み解いていく。例えば、バイクのメットケースに子供を入れっぱなしにする、子供を戸籍に入れないで育てる、ウラン溶液をバケツでくむ東海村、etc