スゴバン!すごい番組がありました/テレビマンユニオン・レトロスペクティブPart.1

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浦沢義雄が脚本をてがけていた『うたう!大龍宮城』に、心に残るシーンがある。話はうろ覚えで、たしか主人公の乙姫のところに、どこかの国の王子がやってくる。王子はその滞在期間中に誰かに恋をして、その相手を妻にしなければならないとかいう設定だった。といって乙姫と王子が2人が恋に落ちるわけではなく、乙姫は王子とともに、王子に恋をさせるべく奔走するが、結局帰国の日まで、王子の恋の相手を見つけることができない。
落胆する王子に同情した乙姫が、神様だかなんだか(声だけ)を見上げ『お願い、彼に恋をさせてあげて』と頼むと、空から光の粉がキラキラと降ってきて、なんと!それを浴びた王子と乙姫が一瞬のうちに恋に落ちてしまうのだ!
それまで傍らにいた人こそが探していた人であったという話の機微も良いのだが、『恋の粉(黒バックでほんとうにキラキラしている上に“キラキラ”という効果音がかぶさる)』というベタな演出が、人が恋に落ちる瞬間の視覚的な表現として実に的確な効果を生み出していて衝撃を受けたのだった。
尚、折角恋に落ちた王子なのだが『良い思い出になりました』といきなり帰国してしまう(笑)。ラストシーンは確か、取り残された乙姫が、あーあれは私の初恋だったのかなーと、物憂げな表情で机に突っ伏すカットで終わったと記憶している(ミュージカルのお別れの歌っぽいのがバックにかかる)。

そんなことを久々に思い出したのは『オペレッタ狸御殿』が公開されたからではなく、昨日渋谷・ライズXで見た『スゴバン!』のうちの一本、『オズの魔法使い』の中で、魔法使いが男女の案山子を恋に落とすために、恋の花びらを降らすシーンがあったからだ。
http://www.sugoban.com/cgi-bin/contents01.cgi#Q

今より30歳若い高見映(のっぽさん)が扮するイノセントな案山子が、悪い魔法使いの謀略とはいえ、はじめて知る恋心と友情との間に板ばさみになる心情を好演・・・というほどのものでもないが(笑)降り注ぐ花びらの量が尋常ではなかった。

それは続けて見た『美輪明宏のサヨナラ丸山明宏』『赤塚不二夫の激情NO.1!』でも同じく、紙吹雪や紙テープがとにかくこれでもか!と、佐渡おけさをバックに歌う美輪明宏や、裸で老婆を脇に従え『漫画No.1!』と叫び続ける赤塚不二夫や、サイケなアジテートソングを叫ぶ全共闘世代のミューズ・中山千夏や、花笠音頭の乱舞の輪から突然現れるキャロルの面々に、降り注ぎ絡み付きその姿を覆いつくさんばかりだ。

同行したtomopolyさん*1が『寺山修二の舞台のようだ』と洩らしていたが、これらまだ揺籠期といえるテレビバラエティは、確かにレビューや舞台に近いものだったのだろう。美輪明宏の番組はシャンソンから演歌まで、目まぐるしい早変わりと舞台転換のオンパレードで構成されたレビューのようだし(舞台より着替えや幕間の時間が省略できる利点をテレビに見出したような生き生きとした構成であったが)、赤塚は本人はほぼ何もしていないにかかわらず、何かをしでかすのではという不穏な起爆剤のように番組に緊張感をもたらし、無言のまま周りの演者に影響を与えるさまをまざまざと見せ付ける*2

その“舞台性”の象徴として、先の『大量の紙吹雪と紙テープ』はあげられると思う。

まずこれだけのモノをセットにブチマケれば当然それを掃除し回収し、再度撒きなおそうなどとは考えられないので必然的に、これら番組がそもそも即時性・一過性に伴う緊張感を纏いながら、だからこそ生まれるハプニングまでを取り込もうとする貪欲を持ち合わせていたことが伺える。それが現在のテレビ番組から失われた大きなものであることは明らかで、たとえば放送コードや自主規制の問題、“コンテンツ”として“再利用”を前提としたあたりさわりのない作品仕様などが隠蔽した差別や社会問題が、これら“問題だらけ”で“今日ではとうえい放送できない”作品群により逆照射されているとなど、このテーマは掘り下げていくことが可能だろうが、そういう話題は既にあちこちで成されていると思うのでここでは触れない。

ちょっと考えたいのは『なんだかたくさん降ってくると感動的である』という舞台演出のコード(歌舞伎・大衆演劇の雪や桜吹雪、撮影所全盛期の時代劇、第三舞台なんか羽とかたくさん降らせてなかったっけ?)が、特に日本映画において『ベタ』という言葉とともに矮小化されて廃れていったんじゃないか、という点で、人工的な巨大セットで映画が作られなくなり、ロケセットによる『リアルな』人の機微のようなものに関心を抱く小型の映画が一定の観客を集める流れの中で、大衆を陽動する映画が方向を見いだせなくなっていた時期があったのでないかと想定してみる。

もちろん大セット映画の復権を願うわけでも舞台の映画化を歓迎するという話でもなく(『オペレッタ狸御殿』も『阿修羅城の瞳』も観たいけど)、むろん何かを降らせろという短絡的な話でもなくて、今や演出上の『ベタ』のあり方に自覚的なテレビ出身の映画監督こそが、『ベタ』をスクリーンに逆流させる形で日本映画を席巻し、リードしているという現状に目を向けるべきだという話で、それを『テレビ的』『お涙頂戴』『子どもだまし』と批判する映画芸術至上主義(実は貧乏の言い訳多し)はもう死んでくれ、というなんだいつもの話になるのだが*3

今週末、まさに撮影所出身監督による“映画的な映画”として撮られた『四日間の奇蹟』と(なにせ編集がフィルムの手つなぎだ)、テレビ的な佳作と前評判の高い『電車男』が同日公開されるわけだが、観客はこれらの作品をどのように受け入れるのだろうか。もちろん願わくば、どちらも異なった層の観客を集め、ともに今後の日本映画のありかたを広げてくれれば嬉しいのだけれど、残念ながら日本映画に用意されたパイはそれほど大きくはないのではないか。


※『スゴバン』詳細についてはid:molmotさんの下記エントリーにレポートが掲載されています。番組自体の情報もid:molmotさんの日記で知りました。ありがとうございます(タイトル訂正しました)。
http://d.hatena.ne.jp/molmot/20050528

※『スゴバン』告知サイト
http://www.sugoban.com/

*1:http://alo.que.jp/poly/

*2:NYアンダーグラウンドのアンディ・ウォーホールや、トロピカリズモにおけるトン・ゼーみたいなもの?中山千夏はニコかヒタ・リーのイメージにぴったり。矢沢栄吉はルー・リードというよりミスチルの桜井みたいだったけど

*3:本広克行はもう何本の映画をヒットさせているのだろう?岩井俊二篠田昇コンビの桜吹雪に誰が瞠目せずにいられようか?行定勲の確信犯的ベタ舞台劇『北の零年』のヒットの本質に言及した評論家はどれだけいたのだろうか?