『ミスト』(フランク・ダラボン)

(ネタバレを含みます)

いままで見た映画のなかでも、とびきりの最悪の気分を家に持ち帰る。
そう、俺には帰る家がある。たかが映画のことじゃないか、ちょっと底意地の悪い監督の嫌がらせと思えば、忘れられる、明日からまた変わらない生活がある。

そう思いたい、でもどうも不快な固まりが腹につかえてとれない。

どうして、こんなにひどい目にあわなければならないのだ。考えうる最悪の運命に見舞われる主人公の姿を、なぜ俺たちは、わざわざスクリーンの前で見せつけられなければならないのか。

突然街を覆った霧の中からやってきた、黙示録の使者のような怪物たちが、普通の人々を襲っていく。スピルバーグの「宇宙戦争」以後の映画であり、とりもなおさず、911以後の映画である本作もまた、圧倒的で理不尽な暴力のまえになすすべもなく、人々はスーパーマーケットに閉じ込められる。またこの映画は、ヒッチコックの「鳥」をも想起させる。「鳥」では、パニックに陥った群衆が、よそ者の女性を魔女扱いするという、極限状態におかれた人間の本質的な恐ろしさが描かれていたが、この映画でもまた、普段は変人扱いされいる狂信的な女性が、そのファナティックな言動で不安な群衆を先導し、狂信者集団をつくりあげていく。

彼女は、この受難を、人類の贖罪であると言う。贖罪ということば、それは劇中で「セサミストリートのように無味乾燥にくりかえされる」。ほんとうにそうなのか。主人公は、このスーパーマーケットに取り残された住民は、何の罪を犯したというのか?いや、本当はこの映画は誰の罪をあばこうとしているのか?

やがてこの怪物は、異次元の裂け目からやってきたのだと、およそ説明とならない説明がされる。異次元から怪物が現れられるなら、それはもう何だってありじゃないか。そんなことを思う間もなく、人々は襲撃され、傷つき、そしてついに(思っていた通り!)、狂信者たちによる「魔女狩り」が始まる。

そこで、唐突に、あるものがまるで「異次元から現れたように」出現するのだ。
それは、窮地に陥った主人公たちを助け、狂った女を殺害する拳銃だ。

怪物の巣と化したドラッグストアで、たしかに撃ち尽くされた筈の拳銃が、暴徒に囲まれた主人公たちの手の中で、いつのまにか充填されていたのはなぜか。あの弾丸はいったいどこから現れ、誰が手渡したのか?まるで、異次元から、怪物同様にふいに現れるかのように。

俺にはそれが、狂った「予言者」と、彼女に先導された人たちの醜怪な姿に、思わず観客が抱いた殺意が、スクリーンの向こう側に結晶したもののように思えてならない。

そう、「お前たちは、いつも私たちを田舎者と蔑み、見下してきた」と、狂女が指摘する相手とは、間違いなく観客である俺たち自身のことだ。常にスクリーンの中の善なるものを正しいものとし、異なるものは容赦なく殺戮してきた観客の欲望こそが、映画的に「正しく」狂女を殺害し、まるでそれが当たり前のように、善なる主人公たちを脱出せしめた「神の意志」として働いたのではなかったか。

この「神の意志」は不遜である。そもそも、どこから現れたのかわからない曖昧な怪物、スクリーンを血と臓物に染め上げようとする意思が具現化したかのようなあの触手で、スーパーの人々を血祭りに上げたのは、俺たち観客の願いではなかったのか。そして最後に、気の毒な、神の気まぐれによりほんのわずか生きながらえた善なるものたちの命を奪ったのも、その意思の具現たる拳銃だったことを忘れられない。

そうだとするなら、俺たち全ての希望を打ち砕く、あのラストシーンの「機械仕掛けの神」が断罪するのは、そんな神である(とすっかり思い込んでいる)俺たち自身の、暴力であり、不遜であり、あらゆる罪なのではないだろうか。

ヒッチコックの「鳥」から半世紀がたち、しかし世界はいまだ異端を魔女として迫害し、人々の不寛容は深まり、そして暴力で覆われている。そうしてなによりも恐ろしいのは、それらもがまた、世界を傍観する我々観客の欲望じしんが生み出しているという現実だ。

霧の中の怪物の、圧倒的に巨大な姿を目にしたときに感じた、絶望。それが決して、スクリーンの向こうにある異次元の世界の話ではないということ、それがこの映画に感じる「最悪の気分」の正体なのだ、と思う。