『知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ展』

ジャコメッリの特殊性は彼が印刷工であり、写真をイメージではなく、具体的なアウトプットとして捉えていたことだった・・・この展示会が優れていたことは、そのことを観客にきちんと知らしめた点にあると思った。
例えば、本展のメインイメージとなった、白バックに黒装束の修道僧たちが輪になって踊る写真に、習作と思しき別ヴァージョンが併置されていることで、観客は、そのコントラストが、撮影後にかなりの修正の手を加え作られていることを目にする。あるいは、展示中、多くの点数が掲示されている、地表の皺を捉えたシリーズに注視すると、一枚の写真の中に数々の修正手法が用いられ、表現に結晶していることに気づく仕掛けだ。

前の映画にひきつけて言うのなら、ジャコメッリが自らの技法を通じて、表現の目的である“白と黒の並存”≒“生と死の並存”までたどり着いたそのことが美しいのに対し、CGという既存の技術に寄りかかった映像は、結局技術そのものを超えることができず、そこに感動はないのだ。

もういちど、ジャコメッリに戻ろう。死の黒を纏った老人と、生の白を纏った老婆が交差する一点が心が揺れた。大げさながらも、これが時を越える芸術なのだと、背筋が寒くなった。

併設の『シュールレアリズムと写真』は、どうだろう、ソラリゼーションという手法が、今でいう“CGという共有技法”なのかなと、興ざめした。なぜだか植田正治には惹かれる。最近マイブーム。