『タクシデルミア ある剥製師の遺言』

かつて『がきデカ』で強烈な印象を残したエピソードに、「さすらいの剥製師」というのがあった*1
凄腕の職人である剥製師が、師匠に苛められたか反発したかで、これを一家諸共殺害のうえ、全員を剥製にして逃亡。以降、追い詰められた彼は、通り魔的に辻々ですれ違った人々を、すれ違いざま一瞬のうちに剥製にするという凶行を繰り返し、最期は、土曜ワイド的に東尋坊みたいな崖の上に追い詰められ、自らを剥製にして果てる、というような、すさまじい話だった。

で、映画であるが、内容的にはこれに匹敵する、壮絶でグロテスクな話ではある。しかし、何か胸に迫ってくるものがあるかというと、片やギャグ漫画でありながら、極北の人間の姿に震撼とさせられる山上作品に比して、画面に繰り広げられるグロ描写からは、なんとも気の抜けた印象しか伝わってこない。

山上作品が、活きている(誤変換ながら、そのまま使う)人間が、次のコマでいきなり剥製と化す省略描写に恐怖を宿らせたことと、CG・作り物を駆使して、解剖から内蔵、吐瀉物、性器まで全て見せきった映画の表現の間に、抜け落ちたものはなんだろうかと考えてしまう(ちなみに、NHKが制作に入っている。ハイビジョンありきの映画か?)。

想像力の余地、などという言葉を持ち出すことは、CGへの批判としては既に紋切り型であるが、この映画作家のCGや映像技法への無邪気な戯れが、弛緩した “本物の描写”のオンパレードである気がしてならない*2。描写は物語に寄与するべきで、描写のために物語がある(ように見える)ことは本末転倒なのではないか。

例えばスリザーのモンスターと、本作の膨れ上がった父親との間にある、造形的には瓜二つの両怪人の本質的な差異とはなんだろうか?それは後者がただ、剥製としてあり続けるのに対し、前者はちゃんとガスを注入され、ちゃんと大爆発するという映画的な最期を見せてくれることだと言ったら、戯言すぎるだろうか?

*1:と記憶する。Googleで検索しても出てこないので、あるいは他の山上作品だったかも

*2:まず吐瀉物がCGなのが引く。ヴァーホーベンなら吐かせるぞ、ちゃんと役者に。そのわりに、男女の交接はちゃんと本番をさせているらしく、なつかしの映倫ぼかしが入っている(笑)チンポから火を吹くシーンは無修正なのに!いっそ本番シーンも「CGですから!」と言い切ればいいのに。