『御巣鷹山』(渡辺文樹)

DVD、シネコン、HDR、ネットetc。ここ数年来、映画を取り巻く環境は全て、映画が個人によって所有され、好きなように消費される『コンテンツ』になることを要求した。この環境で受け入れられる映画とはつまり、それを消費されるモノであると意識した作り手によって、観客に最適化された『コンテンツ』に他ならない。
マーケティングと商業戦略によって、観客のニーズを完全に満たすこれらの『コンテンツ』は、多くの観客によって参加され、所有され、消費されていく。

一方、HD機器の低価格化・機能の向上、上映機会の多チャンネル化、そして権利収益構造の整備が、『コンテンツ』の思いもかけない収益性を産み出し、結果、低予算映画の乱立状況を産み出している。

この『一極集中ヒットのテレビ資本映画』と、『ニッチなターゲット向けの小規模映画』を両輪として、日本映画バブルは、ある。大企業はお金は儲かるし、若い映像作家には仕事がある。よかったよかった・・・イヤ、ナニカガヨクナイハズダ・・・



渡辺文樹監督自身が、全国をフィルム缶と映写機を携え行脚する上映スタイルをとる『御巣鷹山』を見ることができた(4月27日 代々木八幡区民会館)。

圧倒的に面白かった。とにかく徹底したエンターテインメント志向であるのが素敵だ。

話の大枠は、首相の身内を『飛行機に仕掛けた時限爆弾』で空中に拘束し、人質の命と引き換えに過去の贖罪を迫るという、新幹線大爆破的構成であるのだが、先ずここで『日航機事故に隠された真実を暴く』という映画の売りが、実は映画の娯楽性に奉仕する為のプロットであることに気づかされてしまう*1

山中の神社の境内で、どっしりと画面中央に陣取り、互いに睥睨しあう首相と主人公のテロリストを軸に、映画は進む。あらゆる破綻と説明不足と技量不足を投げ散らかしたような回想シーンが展開されるが、しかしひとたび画面がにらみ合う二人に戻るや、観客の惑いは神社に漂う霧の中に散り、これらの混乱は(監督が思うところの)娯楽映画の成立に向けてのみ、実は迷うことなく配置されているのだと、妙に納得させられてしまう。

冒頭からテロリストの背後に配置された、謎の老人たち(不条理だ 笑)の、思いもよらぬ活躍により、興奮が最高潮に達したところで映画は終わり、あとには、昨今なかなか味わうことの無い*2、なにかとんでもないものに立ち会ってしまったという感慨が残った。



それにしても、この映画を、2千万円をかけて35ミリで撮ってしまうという選択はなんなのだろう。それだけのお金があるなら、ポスプロをちゃんとしようとか(フィルムと音声が同期していないので、カセットを同時に回していたらしい)、DVD売って回収しようとか、それ以前に、HDで撮るなり16ミリで撮影すればもっと低価格で製作できただろう。

おそらく、そんな小賢しいことを考え付かないほど、渡辺監督は映画に全幅の信頼を寄せている。35ミリで撮ることがすなわち映画であり、自らの手でフィルムを回し、直接見せ付ける相手だけが観客だという確信。

それは、今の日本映画バブルの舞台に蔓延する、作り手と観客を介在する多くの機関や思惑に、渡辺監督は惑わされないということを意味する。映画を作り、一期一会の観客の脳裏に植えつけようとする行為だけが圧倒的に揺るがないこと。それは映画に対する妄信に近い信頼がなければ出来ないことだ。

些かオカルトめいた言い方になるが、彼の映画にある、こうした蛮勇ゆえのオーラは、『コンテンツ』と化した映画からはなかなか感じ取れないものだ、と思った*3

*1:監督がどこまで本気で『日航機事故の真相』を糾弾する気なのかは、この際考えないことにしておく。

*2:『私の作った番組 赤塚不二夫編』くらいか。

*3:角川春樹周辺にはわずかに漂っているような。高橋洋映画芸術誌上で『男たちの大和』の傾斜甲板シーンをえらく誉めていたが、このCG全盛の世に、わざわざ等身大の大和を作ったり、傾斜甲板から役者を突き落とす蛮勇のオーラを感じたのかもしれない。ただし、これらの蛮勇の主は角川氏ではなく、東映京都撮影所である。