『デジャヴ』(トニー・スコット)

シャマラン以降の一連の底抜けアメリカ映画が好きだというのは何度か書いてきた。不可思議な謎やサスペンスで客を引っ張っておいて、ネタは宇宙人でした!とか幽霊でした!と徹底的に脱力させてくれるそんな愛らしいアメリカ映画たち。
でも配給会社は困るのだろう。日本ではどうもSF的設定の映画は客が入らないのだ。そこで宣伝時もそのあたりは一切隠したまま、なにやら魅力的な謎“だけ”で客を誘い込もうとする。
困るのはその映画が、真っ当なサスペンスなのか底抜け脱線路線なのか見てみないとわからないことだ。これは『フライトプラン』なのか『フォーガットン』なのか。果たして『デジャヴ』はどちらだったのか???


(以下、ネタバレを含みます)


冒頭、水兵の集団や、群衆がフェリーに乗り込むシーンが素晴らしい。落語の『佃島』ではないが、当然のごとくの直後の惨事を予感させるような、笑いさざめく乗客の顔、顔、顔のカットが、突然のフェリーの大爆発によって吹き飛ばされる。

あのテロルを思い起こさせる白昼の凶行。川岸に流れ着く焼けこげた屍体の群れ。

しかし、その中の一体と思われた、若い女性の焼死体は、爆発の一時間前に発見されたものだった。天才捜査官、我らが主人公デンゼル・ワシントンくんは、この屍体とテロル犯との関係を追う・・・

と、しごく真っ当で、サスペンスフルな出だしがしかし、いきなりセカイ系ぽいSFにシフトしだすので面食らった。

ネタを明かせばタイムマシン。政府が極秘に研究を進めていたタイムマシンで犯人を追う、という設定はわりとありきたりに思えるが、面白いのは『過去』のアプローチの方法が通常とは一風変わっているところだ。

映画では『過去』へのアプローチの方法が三段階に分かれている。

最初のうち、『過去』はモニター上に映像として表示される。時間は限定されていて、現在からかっきり4日と6時間前しか見ることができないのだが、その空間内には、建物の中でもどこでも自在に視点を移動させる(キャメラを動かす)ことが出来る、いわば3DCG空間の実写版として提示される。さらにこの空間内では、さまざまな事物が検索が可能だ。ここで捜査官たちは検索により犯人を絞り込んでいく。

意図的なのか分からないが、俯瞰図から人物までキャメラをズームしていく映像は、GoogleEarthの操作感に非常に近い。世界中を自由に動き回り、地上の生業を俯瞰するほのかな征服感。このシーンでの『過去』検索はそんな高揚した気分に溢れている。

さて第二段階において、その検索可能な範囲が限定的であったことが示される。モニターでブラウズできる過去の地理的な範囲は街の中心部に限られているのだ。そこから出て行った犯人を追うには、携帯式のゴーグルで、犯人がかつて通った軌道上を撮影しなければならない。捜査官はモニタールームを離れ、街に出る。
ここでこの映画における『過去』のもう一つの性質が効いてくる。現在からかっきり4日と6時間前しか見ることができないこと、つまり都合良く『先回り』したり『後戻り』が効かないこの『過去』は、現在と平行して流れる、もうひとつの世界としての不可侵性を露にする。

猛スピードで『過去』のハイウェイを走る犯人の車を見失わないために、捜査官は『現在』のハイウェイを追いかける。『過去』は夜間なので交通量が少ないが、『現在』は真っ昼間という状況で、しかも対向車線を疾走しなければならない!

かくして『現在』の困難を経て犯人は逮捕されるが、しかし、今ブラウズしている『過去』はやがて、来るべく惨事を回避することができないのだ。

つまりこの映画において『過去』は、『参照し、検索できるが、変化を及ぼすことのできない別世界』なのだ。そして映画の中心にはそこへのアプローチを熱望する(そこには当然、こちらからしか見えない美女=屍体で見つかった女性がいる)主人公の葛藤の物語、セカイ系の構造が据えられているのだ。

少し脱線するが、この『検索・参照によるセカイの把握』によってもたらされる高揚感から、『セカイに対する自分の影響力のなさ』という現実の前での無力感への振幅は、興味深いことに、米澤穂信笠井潔の対談*1で指摘された、二一世紀人の心的風景である『全能感と無能感の間の無限往復』を想起させる。

『知恵と知識がネットワーク化され』すべて検索で答えが求められる現代にあってなお、『謎とそれを解決していく過程をエンターテインメントとして読ませていく可能性*2』を追求する米澤は『この全能感と裏返しの無能観、これを試練にかけることで自分を客観視することのできる視点を獲得する*3』ためにミステリーを書くのだと言う。

トニー・スコットがその映像構築力とアクションで突破しようとした問題系が、日本のミステリの最先端のそれと限りなく近いことに、いきなり直面したことが何よりの驚きだった。フィクションというものが大きく影響を与えているとも指摘しうる、この『全能感と無能感の間の無限往復』という心象風景へのある種の責任に、日本においても、こと商業映像に関して言えば『仮面ライダー電王』くらいしか自覚的なものは思いつかない*4

もっともその突破する方向はかなり異なっていて、『デジャヴ』では最後に本当に捜査官が『過去』に越境し、そこでテロの被害者を救う、という話になっている。越境の不可能性を耐える日常、という救い無い終幕が用意された米澤の『さよなら妖精』とは180度といえるほどの違いだ*5。『ハリウッド・エンディング』という別の強力な物語で、問題系をねじ伏せる展開で、最後には平板な映画になってしまった、という印象が残った。


*1:「ユリイカ」2007年4月号 特集・米澤穂信 ポスト・セカイ系のささやかな冒険 に収録

*2:同引用

*3:同引用

*4:『現在』と『過去』のカーチェースの場面はまた、『仮面ライダー電王』第二話の、『過去』でのイマジンの破壊行為が『現在』の建造物に即座に反映されるシーンでの二分割画面演出を想起させた

*5:トニー・スコット米澤穂信を比較するのがそもそもどうかと思うけど