『どろろ』(塩田明彦)

もはやこれは日本映画ではない。といってそれは旧来から日本映画とハリウッド映画の間に横たわるといわれる壁−桁違いの美術予算によるスケール感とか、CGのクオリティとかが見劣りしない、という意味ではない(見劣る 笑)。

キャラクターがとにかく単純だ。原作にある、登場人物の出自や境遇からくる様々な屈折した思いは排除され、全員が全員『家族が大切』という分かりやすい原理にのっとり行動する。魔人に心を奪われたラスボスが、『家族が大切』の思いの前に改心するラストを見て、ファミリー向けのCGアニメかよ!と突っ込みを入れたくなる。

ただ、その造詣が徹底しているが為、商品として破綻がなく、安心して怪物退治を堪能できる。シネコン向けのクオリティを保つために、文学的だったり啓蒙的だったりする要素を潔く切り捨て、市場での成功をのみ本気で目指した商品として『どろろ』は日本映画ばなれしている*1

ただ、大ヒットに結びついたのは仕掛けだけではない、映画の力があったからで、例えば本作での柴咲コウの存在は、流石ヒット映画の女王たる風格がある。

『(自分の家族の)復讐は諦めるから、百鬼丸は生きろ!』という叫ぶシーンに、劇中一度も『好き』と口にすることなく、映画をラブストーリーとして成立させてしまった彼女の視線の力を感じた。
だからこそ、妻夫木百鬼丸の活躍を終始見つめる、柴咲どろろのラブラブ視線に同化し、観客もどんどん百鬼丸が好きになっていくという仕掛けが充分に生きている。

『少し新奇な映像体験』『ブレのない製作方針』『想定される観客の同一化視線の保証』
最近のヒットする日本映画には、こんな要素を満たすものが多い、と思う。

*1:強いて近年、“商品”を強く志向した作品として『北の零年』を思い浮かべた。実際アレはサユリスト(東映社長を筆頭とする 笑)向けに完全にセグメントされた商品であり、その世界の中で完結した映画として一点の揺るぎもなかった。故に、吉永小百合の乙女チックをサユリスト以外が批判するのは、宝塚の舞台を見て『あれは男ではない』と言うに等しく無意味だ。