『植物診断室』(星野智幸)

母親が『子供を産む機械』である、という政治家の発言が、批判の的にされ世間を騒がせた。これはマスコミにおいて、女性に対するスタンスが『扱いに慎重を要する』事項と認識されているがため、裏を返せばそこにある、男性優位の思想があるからこその『弱者に対する思いやり』という不遜がはっきりと感じ取れる。

であるからこそ、発言に対する、野党やそれに乗っかったマスコミの批判が、言葉尻を捕えただけの表面的な『女性蔑視糾弾』に限られてしまう。

例えば、では父親は『子供を産ませる機械』であるし『家庭を持ち、社会に貢献する機械』なのかという論旨が新聞やテレビで発言されることがあるのだろうか。子供を産み育てるのは『家庭』であり、それを営む一組の男女である以上、異議申し立てが『男女平等に』なされるべきではないのか。

そうならないのはつまり、男性は社会にとって有益な機械=父親であることが善、という考え方が、最近の根強い風潮になっているからではないだろうか。男性は機械であることを疑われない。『立派な仕事』を持たず、『家庭』を育まない男たちを、社会にとって有用な機械でないが故に、集団で蔑むという思想。あるいはその風潮は、右傾化であるとか、暴力などと呼ばれるのかもしれない。

『植物診断室』は、産ませる機械である“父親になること”に異議申し立てをする男性の話だ。この国を覆う、機械としての社会に対する義務を否定し、個人と個人の関係性を一つ一つ築くことによって、個人が自立した未来の社会像を描こうとする主人公の道のりは、社会の批判する、自由気侭な気楽なものでは決してない。

なぜなら、その機械たる“父親”は、彼自身の血にも流れていて、それは時に暴力的に、彼の内部から吐き出されてしまうからだ。

スギノコこそが父の始まりだった。力を振るう者と犠牲になる者という分け方を、決める存在。犠牲を要求する者と、その要求に応える勇ましさを価値とする者。居場所が与えられているくせに、居場所を要求する者。寛樹はそれに荷担してしまった。そうではないあり方を求めていたはずなのに。

(本文 109P)

さてそんな小説である『植物診断室』が、現代の“父親象”の具現たる都知事が、審査員を務める文学賞を、受賞できないのも当然だ。都知事の審査コメント『(受賞作以外は)問題外』という発言が、そもそも小説としての技巧以前の段階で彼が拒絶していることを物語ってはいまいか(そういうスタンスが審査員として適正であるかという問題もあろうが)。

ところで私が星野智幸の小説に惹かれる点である“植物への偏愛描写”であるが、いつもは作中に溢れ出す植物群が、リアルと非現実の境を喰い破り、小説全体に絡み付いて一幅の絵画を鑑賞するような濃密さをみせるのだが、今作では幻想的な主人公の植物化の場面は、心理診断室内での夢として、リアルな現実描写と隔てられてしまったことで、作品の構造を“主人公の生活と、心理状態の比喩である小道具の対置”という、教科書どおりの小説のように見せてしまっている。

その分都知事との対決姿勢は露になるわ、某女流作家からは『スギノコって何の比喩?』などとカマトトぶった突っ込みをされてしまう脇の甘さになってしまったのか、なんとも悔やまれる。村上龍も意外と評価が高かったようだし、植物がエロスと混然一体となりページを覆い尽くしていた、あるいは『アルカロイド・ラヴァーズ』ならば、受賞もあったのかなあ、などと言っても詮無いが。



植物診断室

植物診断室


アルカロイド・ラヴァーズ

アルカロイド・ラヴァーズ