『がんばれ!ベアーズ/ニューシーズン』

オリジナルに忠実なリメイクであると聞いていたので、冒頭は当然、スプリンクラーの水滴眩いグリーンのグラウンドを、悠然と整備するトラクターの姿から始まるものと思っていた。それはたぶん私の記憶違いで、トラクターからはじまりトラクターで終わるのは『がんばれベアーズ!特訓中』(シリーズ2作目)だったと気がつくのだが、かつて見た、そのトラクターによって緑鮮やかに化粧されたグラウンドの輝き、つまりは旧作シリーズがもっていた映画としての輝きが、なぜだがこの新作に見られないのが不満だった。

代わりに新作でグラウンドを取り巻いているもの、それはリーグ開会式で、田舎の共和党支持者を体現したかのような役員による、911の犠牲者とイラク派兵に赴いた兵士を織り込んだスピーチであったり、ラストでグラウンドを睥睨する星条旗であったりする。

オリジナル版においては、ベアーズというチームは『おちこぼれ』の集団であった。ヒスパニックであったり、家が貧乏であったり、極度な運動音痴や肥満児であったり、彼らは当時の標準的アメリカ人に比して、迷うことなく『劣った』存在として描かれた。またチームをコーチするバターメイカーも、アルコール依存気味で家庭崩壊者である。そんな彼らが、標準的アメリカ人(ライバルチームにその役割が当てられる)の価値基準である『勝敗』を超えた人間性を、グラウンドで取り戻すのがかの映画の大筋であった。

70年代という時代背景を念頭におけば、この映画で描かれていたのは、多様な価値観を容認し、人間性を回復するあたたかな夢の空間としての“グラウンド=民主党的なアメリカの理想像”だったのだ。

リメイク版は、オリジナルとほぼ同一のキャラクターと筋立てを持っている。あいかわらず毒舌を吐き、英語を理解せず、ぶくぶくに太った子供たち。にも関わらず、彼らにほとばしる覇気を感じることはない。なぜなら、既にアメリカ映画においては、こうしたハンディキャップを持った者たちは【差別してはいけない存在<保護されるべき存在】として、安心してスクリーンに登場しているから、彼らの苦悩や、がんばりまでもが、作り事めいていて白々しい(リメイク版のオリジナルキャラとして車椅子の少年まで登場する)。

英語が不得手なアルメニア人の少年に、ちびの毒舌家の少年が、スラングの悪口を教えながら『これもアメリカ式だ!』と言う。当時であれば喝采を浴びるような台詞が、今現在になってはいやに薄ら寒い。“反体制をも容認する自由でナイーブなアメリカ”という幻想がどこかに消し飛んでしまい、“既にハンデキャッパーも異人種も差別されることはありませんよ”というスローガン=強いアメリカの体現として、リメイク版のグラウンドは存在しているという事を気付かせてしまうから。

だからこそ、このグラウンドは、911の記憶とナショナリズムの枷でしっかりと固定される必要があったのだ。その幻想もまた脆弱であることを、力ずくて否定し続けるために。


ところで、リメイク版の監督、リチャード・リンクレーターの前作は『スクール・オブ・ロック』。考えてみれば前作の爽快さはすでに、“体制(学校)の規律に反抗する生徒の話”にはなかったのかもしれない。今どき“ロック禁止”などという設定はギャグ以外にないのじゃあないか。

今のアメリカ映画で、公然と差別してかまわない存在があるとすれば、それは“非モテ、おたく”であって、それを完全に体現したジャック・ブラックが、思いもがけず格好いい、というところに逆転のカタルシスがあったのだ、きっと。
(であれば、今回、ビリー・ボブ・ソーントンが格好いいーちょい汚いレオン系、と言えなくもないーのも、映画の敗因のひとつだな。アマンダに嫌われてるように見えないんだもの)


がんばれ! ベアーズ 特訓中 [DVD]