夏のトラウマ

前のエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/beach_harapeko/20050620/p1から派生した雑感を少し

リトルボーイ』〜原爆から始まる現代日本文化史

Little Boy: The Arts Of Japan's Exploding Subculture

Little Boy: The Arts Of Japan's Exploding Subculture

は、買ってないですが、以下の紹介により興味を惹かれている。

戦後日本の物語には『世界の中心で愛を叫ぶ』に至るまで「夏休み」と「白血病」が混在する悲恋物語が多い(真夏の原子爆弾)等など。。。
http://blog.livedoor.jp/insighter/archives/24306467.html
via
http://d.hatena.ne.jp/gotanda6/20050608/pikadon

敗戦体験と、遡って明治期の美術体系の輸入時に起きた歪みにより、現代美術が『くらさ』に支配された『悪い場所』に閉じ込められているいう指摘は、『日本・現代・美術』(椹木野衣ISBN:4104214019ことだが、その影響を文化文芸一般に広めた日本人論として展開しているところが面白い(読みようによっては、いやむしろ『日本・現代・美術』は戦後日本人論でもあったわけだが)。

考えてみるに、前のエントリーで取り上げた『高校球児⇔女子マネジャー』と『兵隊さん⇔女子挺身隊(を含む戦時期の女性)』という相似は、高校野球というシステムと戦時下の日本のシステムの相似を物語っているといえはしましか。

チームという団体の勝利のために、真夏の炎天下で肉体を酷使するという、近代的スポーツのあり方から見ればおよそ不合理な見世物が、21世紀にもなって続けられている異様さも、これが60年前のあの夏、個を押さえつけられ団体への奉仕を義務づけられた若者たちの境遇を擬似的に繰り返す、日本人にとって聖なる儀式であると考えれば納得するではないか。

8月15日の黙祷で、イベントの儀式性は頂点に達する。それは単なる『追悼』でもなく、戦争を反省する『後悔』の念でもない。日本人を捉えて離さない、数多くの亡霊たちが、ただそこにいるという『くらさ』が、真夏の陽光と陰影をなしている。