カンフーハッスル

1.
久しぶりに、座席指定でない映画館で映画を見る。
座席が指定されず、ロビーにキャラメル臭がしない映画館はもはや少数派なのだろうが、しかしその事態の深刻さからいかに評論家が目を背けているかは、キネ旬ベスト10に『世界の中心で、愛をさけぶ』がランクインしていないことから明らかだろう。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/flash/KFullFlash20050106028.html
《メジャー/体制的/批判の対象》←→《マイナー/反体制/加担の論理》
という不毛な二項対立しか描けない日本映画人の既得概念は、確実に日本映画を世界の潮流から遠ざけている。
昨年私が見た数少ない(情けない話であるが)日本映画のなかで、このアナクロな対立や、それに類似した《特撮/デジタル/非人間的》←→《実写/アナログ/人間の姿》という、ほんとうにそんなことを真面目に信じている日本人が激減している中、日本映画界のみがその保護地域であるかのようにはびこっている旧態依然とした考えに真っ向から異を唱え、それらの交接こそがシネコン時代の映画のスタンダードであると実践してみせたのは『世界〜』と『下妻物語』だけだったと思う。

2.
Mr.インクレディブル』の監督がパンフレットでインタビューに応えている中に
『3DCGは、カメラが自在な位置に置けるからね』という主旨の発言をしていて膝をたたいたのだが、つまり映画のデジタル化が招いた画面上の変化には『巨大なセットを組んだりロケに行ったりする事なく、自在な風景を描く事が出来る』という、美術セットの経済化だけではなく(実際、これだけがCGの役割だと思われている現場も多そうだが)、『対象をカメラの存在という制約を超えて、自在な視点で見る事ができる』という、映画鑑賞という体験を劇的に変化させかねない可能性をも秘めているのだ。

3.
《メジャー/体制的/批判の対象》←→《マイナー/反体制/加担の論理》
という対立が前提にあるのは、なにも批評家だけではない。むしろ、いかにも権威主義であったり、古くさい様式のものに安易にレッテルを貼りたがるのは、一般の観客のほうだったりもする。
『世界〜』の行定監督は、その対立構造すらも突き崩そうとしている。“大スター映画”であり、“時代遅れの大量動員作品”であり、なにより“説教臭そうな時代劇”である『北の零年』を、彼は如何に《おもしろい映画》として成立させたのか?
ひとことで言えばそれは『吉永小百合というリスクに、正面から向き合う』ことだったと思う。
容姿に年齢が隠せない彼女を、過去の栄光や幻影に囚われることなく、残酷なまでにキャメラを向け、ありのまま持てるものを引き出そうという試みは、おそらく勇気のいる事だったのではないか。その選択は後半、あたかも『ハウルの動く城』の老女のように、純粋な心を持ち続ける強靭で愛らしい女というおよそ現実離れした人物像を、描き出す事に成功している。
『触れる事すら畏れ多い大スター』としてしか彼女を《見る》ことしかできなければ、ひとりの希有な存在=素材として彼女を見るという《自在な視点》を持ち得なければ、この映画は無惨なプロモーションビデオとなりはてていただろう。

4.
カンフーハッスル』の話を何も書いていない(笑)
いやまあ、見ながら、上記のようなことを考えていたので。周星馳、ラクしすぎですね。
あと、拳骨から血がしたたるカットから邪推するに、周星馳、『刃牙』の影響が濃厚だ!カンフーの達人が敵をよけるとこ、消力の実写化みたいでコーフンしました。
映画そのものは、彼の過去作のように、意味のないギャグが寒かったり、むやみに室内でアクションがあったり懐かしい感じ。そういえば、007のパロディなんかで共演していたアニタ・ユンは何してるのかなと思ったら、今やテレビ女優なんだそうです。CD持ってたのに、どっかにやっちゃったかな?
http://asiastar-hp.hp.infoseek.co.jp/japanese/anitayuen.shtml