最近女性作家雑感

年初から『文藝』や『新潮』といった文芸誌を手にしていて、女性作家が目立つなあと感じる。はなはだ雑な言い方であるが、その内容がほぼ『独身乃至は満たされない既婚女性の繊細な内面を繊細に』描いたものであるのは、それが文芸誌というものだと捉えるのならそういうものなのかもしれない。

とはいえ読後感にはっきりとした差が出るのは、作品に織り込まれた『想定される読者からの視点』への態度の違いであると考える。『繊細な内面』が如何に読者に働きかけるのか、良い言い方をすればそれは計略と呼べるし、もちろんそういう計略のある作品は商品としても価値も高い。が、そのぶんこうした作品の読後に残る、なにか鼻につくような嫌な感じは、その計略が読者の、いやはっきり言えば男性読者の、『繊細な内面を持つダメ女』に対する優越感を期待するものであるからだと感じる。それを『媚』と呼んでしまってもいいかもしれない。

絲山秋子の評判がいいが、僕はこの人は計略家だと思う。痴漢に依存したり糞尿にまみれたり、主人公の関係性に対する駄目っぷりを示すこれらのモチーフは『繊細な内面』を読者にアピールする見てくれの仕掛けにしか思えない。この人のフェティッシュは偽物だ、と村上龍なら言うことだろう(笑)。ついでに村上龍にも反論したいけど、フェティシズムが人間の内面を顕在化させるというキャラ観は、ちょっと陳腐なんじゃないだろうか。嗜好が、それが如何に異常であっても、それは単なる人物設定の1パーツでしかないという、紋切り型でない人間の不気味さを阿部和重は描いているんじゃないか。

話がずれたが、『ダメ女』に優越感を覚えて欲情するダメ男という構図は、かつて『女の子の内面』を『繊細』に描き続けた岡崎京子が、『不思議ちゃん』を理解し支配することで優越感に浸るという男性原理(松本小雪と糸井重里とか、椎名桜子中沢新一とか)により支えられイコンと化した、あの時代を思い起こさせる。あー、また高橋源一郎、嵌ってるよ(笑)。

こういう醜い優越感について、id:hizzzさんがおっしゃてることがズバ!とはまるので引用させてもらいます。

自己成立の為に対象とした「弱者」対象者を、本心では軽蔑してる。なんかかんかいっても、「強者vs弱者」という二項対立を基調とした運命論信仰であるから、弱者はいつまでも弱者でありつづけなければ、自己成立的に都合が悪い。したから、よりまったき正統な弱者を求めてそれに依存するし、ときには弱者当事者が自己の不都合を解消しようとする行動を糾弾して、弱者エリアにおいこもうとさえする。が、決して、隣りで泣いてる弱者対象者の瑣末な日常コンフリクト解消の為に、自己時間を割いたりドロをかぶりろうとはしない。
http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20050122#p4

というわけで、絲山女史の作品を、某大物脚本家(某有名映画批評雑誌主宰)が映画化しようとなさっている背景には、こういう女性蔑視(と、蔑視することで成立する弱い自我)が確実に存在するのだなあ。

山崎ナオコーラ『人のセックスを笑うな』ISBN:4309016847、主人公の男の子が、中年女性との交際を通じて、結局なーんも変わらないところだろう。たかだか関係性を結ぶくらいで、内面に触れられると思ったら大間違いだと、突きつけられて駄目な中高年はすごすご退場するのが良いよ。