CASSHERN

なんで私は映画を観るのか。つうか何を期待して映画館に行くのか、というほうが正しいか。
もちろん、何がしかの、その映画でしかえられぬ未知の体験をしにいくのだ、と常に言えればいいのだが、とにかく何か引っかかりがあるものを、端から観ていく生活も出来ぬとあっては、完全にノーチェックの一本が思わぬ拾い物であったというような幸運な経験にもなかなか巡り会えない。
得ようと思えば大概の情報が得られ、付け焼き刃でよければいくらでも理論武装が可能で、絶賛だろうが酷評だろうがいかようにも先入観を抱きうる現在の映画鑑賞環境にあらがうことなどできるわけもなく、出来うるだけ時間とお金が無駄にならない、あらかじめ自分の望む感想と感慨と感激を満たしてくれるで「あろう」作品を観ながら私がしていることが、頭の中に出来上がったその映画に対する評価を、現物に接することで「再確認」することであることは否定できることではない。

んで『CASSHERN』である。

もちろんこの作品を観るにあたっても、各種映画評、2ch、Blog、BBS、観たひとから直接聞いた感想等々を参照し、まず私は『予告編はすごいけれど、そこで使われた箇所以外は映画として成立していない』という固定観念を頭に浮かべ、『その成立していないサマは、ひょとして笑えるのではないか』と鑑賞の方針を定め映画館に向かった。

のであるが

筋がどうとか、演出がどうであるとか、半ばあら探しのようなこちらの行為を放棄するのに、最初のナレーションが終わるのを待つ必要もなかった。その時間、わずかに1分。
その後2時間20分、私が何をしていたかというと、ただただスクリーンを見つめて放心するのみ。最後にはあろうことか涙が出てきたよ。なんということだ!

演出は時間・空間のつながりを欠き、状況説明の過剰な台詞は説明以上の意味を持たず、どうやら聞き取れるテーマらしきものはガキの作文のごとき陳腐さで、悩んでる人(男)と、癒す人(女)しか、大別すると出てこない登場人物は、感情移入も嫌悪感をも抱くことを拒絶する。
そうしてそのことは、もちろんあらかじめ予想できたことであり、あーやっぱり駄作だったなあと安心して観ていられるはずのことだったのだ、本来であれば。

にもかかわらず、私を圧倒したのは、とにかく丸ごと世界を作り上げようとする、監督の意図のようなもの、である。(ようなもの、というのは、もちろん精神科医でもない私が、画面から監督の意思を分析できるわけでもないし、そもそも映画を『解釈』するという見方ができないため、ただ見た目の画面にほどこされたその作品ならではエゴの痕、をそう言っているにすぎないからなのだけれど)

アクションシーンのみならず、全カットCG処理という得体の知れない情熱に加え、動きのない、本来なら捨てカットであるカットであるほど、人物が画面からはみ出すほどアップでとらえ、重要な(なにか意味のある台詞を言っている、という意味で)カットには、『ここ、重要ですYO!』と言わんがばかりの光学処理が、全てのカットを見事なまでに均一の『質感』に治め、そこに、役者の存在感であるとか、戦争の実景フィルムであるとか、妻の歌声であるとか、観客の感想であるとか一切のノイズを封じ込めた、ジップロックされたような紀里谷世界が構築されている。

真に驚愕すべきは、いわゆる旧来の映画的手法を持ち合わせない紀里谷監督と言うエゴが、テクノロジーの汎用化(『CASSHERN』のCGはパソコン数十台で処理)により、このように『映画作品』として、一貫した世界観を持ち得たということだ。
この情熱を持ち続けるのであれば、この映画を『映画ではない』と批判する人々のよりどころである『映画的手法』を、紀里谷氏が今後習得することは、機械音痴を鼻にかける手合いの『映画監督』が、テクノロジーを駆使できる確率に比して遥かに高い。

そして、これをいちばん言いたかった為に、むりやりここまで書いてきたのだが、映画館に入ったが最後、観客は、それがたとえ自分の嗜好に合おうが合うまいが、スクリーンに映る映像を一方的に受け取るしか出来ないのだという無力感、これこそが映画館で映画を観るということの本質であり、そのことを意図してかしらずかまざまざと示した『CASSHERN』を、映画と呼ばずになんと言えばいいのか。

・・・秘宝館、とか(笑)