エレファント
2人組が出てこないと、ガス・ヴァン・サントはつまらない。
この文章を書く前に、テレビで『チェンジング・レーン』に出ているベン・アフレックを見ながらそう気付いた。
ベンって、本当はたいして格好よくもないマット・デイモンをひきたてる為に、ずっとそばにいてやればいいのにというくらい、『グッド・ウィル・ハンティング』のときのアホぶりはよかったな。
ふたりが工事現場で働いていて、マットが『もう数学はやらない』とか言ったときにベンが
『おまえは勉強してこの街を出て行け』
と言ったときのアホなりのいっぱいいっぱいな格好よいアホ面と低くたれ込めた雲、というところがあの映画の白眉だったと思うのだが、そういえばガスヴァンの映画で印象に残っているのは、男の子たちが曇天の元、話しているようなシーンが多い。
例によっての曇り空、寒色系の独特の色合いに、突然挿入される裸体の暖色。
幼稚さの残る表情が抑えきれない力を持て余し困惑に歪む。そして残酷に微笑む。
実行犯ふたりのシークエンスだけとりだせば、まったくもっていつものガスヴァン世界だ。ファンであれば『ああ、いつもどおりであったなあ』と納得して帰らねばならぬところである。
にかかわらず『エレファント』が明白な納得を私に許さないのは、そのテーマももちろんあろうが、なんといっても奇怪な映画内の『視線』に原因がある。
以下、完全にネタばれですのでご注意ください
登場人物たちが、校外から校内へ、部屋から部屋へと移動するその真後ろを、カメラはひたすら追従する。画面には歩く人物の後頭部が中央やや下部に固定され、まわりを風景が後退していく。
ホラー映画だったら、真後ろに追随するカメラは、危険な存在の接近を表し、そのまま振り返ってズドンといかれるか(そういうカットが一カ所だけあった)、ふりかえって何もない、ほっとした次のカットで怪物が!みたいなところだが、この映画では、視線は最後まで(原則)客観性を保ち、意思あるものの視線と同化することはない。
映画内でこの構図の種明かしがされる。それは、実行犯の少年が、犯行の前日に部屋で興じるビデオゲーム、ライフルで標的の人間を打ちまくるそのゲームの画面と同一なのだ。そういえばスタンダードで撮影されたこの映画の画面も、ビデオモニターと相似形であるから選択されたのだと納得がいく。
であるなら、この映画の『プレイヤー』は誰なのだろうか?
『プレイヤー』が誰であるかという解釈は置くとして、観客は否が応でもその『視線』と同化せずにはいられない。そのとき、観客は、無造作にこちらに後頭部をむける人物に対する無力感をまざまざと感じることとなる(なにせ、勝手に動いているから、このキャラは)。しかも映画が進むにつれ、どうやら私たちのキャラクターは『撃たれるほう』であることが判ってくるではないか(『撃つほう』の描写には、この構図は用いられない)。
完全な無力感と、うらはらに負わされた傍観者としての責任感にのしかかられながら、私たちはキャラクターが呑気に過ごす最後の日常を眺め続けないといけない。
それにしても、だ。どうしようもなく実行犯に愛着を示すガスヴァンが、ライフルを撃ちまくる少年たちをどれほど美しく撮ってしまったか。同じ映画のなかにこれほど異質な二つの映画が同居することは、さらに観客を困惑させる。ゲーム化され、シーンをシャッフルされ、ますますキャラクター度を強めていく『撃たれるほう』と対比するからなおさらだ。
『プレイヤー』はラストで、その視線を通じて観客に選択を迫るだろう。
あなたは『撃つほう』なのか。『撃たれるほう』なのか。あるいはその選択から逃れて、そっと後ずさりしながら逃れることがかなうのか。
ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な・・・