しかたがない


『こんなこと書いてもしかたがないよな』と結論して書けないことが最近よくある。そもそも自分のブログなど『あろうがなかろうがどうでもいい』ものであるから、そんな逡巡こそ『どうでもよい』ことなのだけれど、どうしようもなくもやもやする思いは、ある。

香田という人は、もちろん『知らない人』である。親戚や知り合いに、イラクに行っている人も、また行く予定がある、行かねばならぬ人もいない。
『知らない人』が、どこか遠くで死んでしまった。そうですか、お気の毒ですね。
だいいち、『知らない人』のことについて、どうしてそんなに熱く語れるのだろうか。叩くにせよ、曝すにせよ、守るにせよ。自衛隊撤退論を語るもの、親米政策を擁護するもの、堰を切ったように熱く交わされる言葉、のびて行くスレッド、繋がって行くトラックバック
小泉首相が、真っ先に発言したのは『自衛隊は撤退しない』ということだったという。
真偽はしらない。報道の思惑が、それを『第一声』として伝えたということもあるだろうが、結果は同じことだ。
対米政策は個人に優先する、そしてそれは揺るぎない、という宣言。そう、何事につけ無責任で明言を避けるこの国にあって、例外といえる直情的な断言。
この断言が国民に及ぼす影響を、小泉首相は、マスメディアはどこまで明確に意図しているのだろう。個人が国家に守られないという不安が撒き散らされ、不安に苛まれた国民から『逡巡』の余裕を奪い去り、直情的で子供じみた『断言口調』がネットにはびこる。
・・・『こんなこと書いてもしかたがないよな』

新潟で大きな地震があった。ネットは善意で満ちている。迷うことのない、逡巡のないきらびやかな善意。マスコミが敵だ。あいつらはハイエナのように現地に群がり、道を塞ぎ大声で安眠を妨害し物資を買い占める。迷うことのない善意はもちろん、彼らの蛮行を見逃したりはしない!糾弾せよ!録画してやれ!マスゴミを追い返せ!・・・待って、どうして善意が敵を必要とするの?緊急時に大勢の人間がいれば、もたつくことだって苛立つことだってあるだろう。いや正直、おれも嫌いだけどさ、マスコミとかそういう『現場』感覚の人、一概に『○○屋』と呼ばれる(名乗る!)人たちの非常識ぶり(『ブン屋』『テレビ屋』『カツドウ屋』etc)。『○○屋』の屋号は非常識の免罪符じゃないぞ!・・・と尻馬に乗って書いたところで何になる?
・・・『こんなこと書いてもしかたがないよな』

知らない人のことだろ、放っておけよ。けれど、『こんなこと書いてもしかたがない』自分に押さえつけられても、まだくすぶってる気持ちがある。恥だとか、恐れだとか、照れだとか、なんだお前さんがびくびくしてるのは、結局自己防衛じゃないかそうだろ?とつきつけてくる。

例えば、誰かの人生が曇天続きのようなものだったとして、その雲の隙間から一瞬だけ差してくる弱々しい光、それがあるいはその人に気付かれなくてもいい、それくらいでいいから、自分の言葉が人の役に立ちはしないかな。最近はそんなことを考える。(ので更新が怠りがち・・・ということにしておこう 苦笑)

http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20041031