『風音』(東陽一)

@ユーロスペース。老人の撮る映画には迷いがない。演技が新派くさくとも素人くさくとも、なにか定まった映画の箇所に力ずくでそれらを嵌めていく手際に呆然としているうちに、カンラカラと高笑いする爺の思惑にのせられて、すっかり画面に見入ってしまう。要は年寄りの、何度も反芻され練り上げられ、半ばクリシェあるいは持ちネタと化した『いつものあのはなし』を聞くことに耐性があるかないかが、この手の映画の良き観客になれるかの否かの決めて、これがひとつ。もうひとつ、現代日本映画が誇るCG技術が、老人の野放途な想像力を遠慮なく画面に再現したときの、洗練とは対照的に位置する一種の禍々しさ。これこそがまるで遠く異国の映画をはじめて目にした時のような新鮮な驚きを観客に与えてくれる、と、老人に好意的な私なんかは思うのである(『夢』でのハイビジョン合成の使われ方を思い出して欲しい。もし黒澤明が今も存命で、今の技術で『蜘蛛巣城』なんかをリメークしたら、スティーブン・ソマーズなんかが子供騙しに思えるような映画になるのではないかと夢想)。カニと光石研がよくがんばった。

http://www.cine.co.jp/fuon/index.htm

※しかし平日の昼に、この内容の映画だから観客はほとんどが妙齢のご婦人のご団体。なのはいいがいきなり予告編が『以蔵』(笑)。公開前にはちゃんと『マーダー・ライド・ショー』の予告もかけて、ご婦人方の顰蹙を買ってくれたかなー。

※書いていて気付いたけど、映画作家がCG技術により『野放途な想像力を遠慮なく画面に再現』し、『洗練とは対照的に位置する一種の禍々しさ』を生じさせ、『新鮮な驚きを観客に与え』た映画って、まんま『CASSHERN』にあてはまる評じゃないか。揺るがない『強さ』が中心にデーンとある映画が特別に見えるということは、日本映画の大部分の制作過程において『揺らがない』ことがとても難しいことを示しているのだと思う。