メディアと人質事件
19日の日記で、メディアとしてどうwebユーザと「憎悪の相互利用」でない関係を築くべきか、期待を込めて書いたのでhttp://d.hatena.ne.jp/beach_harapeko/20040419#p5、今日はユーザ側としてどうweb上のメディアに接したいか、について少々。
これについては、id:kosekiさんが、すでに素晴らしくまとめてくださっています。
ウェブログで社会のことを(相手が居ることについて)文章にしているのに、取材という発想が全くないようではダメなのかもしれない、と思いました。出かけていって相手に話を聞くことまでは出来なくても、メールで聞けることはある。相手によっては、大量のメールが行くと負担になってしまう可能性があるのが、難しいところでしょうけど……。
あと、新聞の発行は、複雑な作業によって成り立っているんだってことが、なんとなく伝わってきました。朝日にしろ産経にしろ、メディアの内容の批判はいいとしても、作業そのものには敬意を払う必要があるよなーと。
http://d.hatena.ne.jp/koseki/20040419
うっかりすると、私たちは「朝日新聞は」とか「読売新聞は」とか、メディアをあたかもひとつの人格として扱ってしまうことがある。
新聞の中に、あたかも意思決定機関のようなものがあって、記事に対し逐一チェックし、なにか言論コードのようなものに当てはめて、画一的でベクトルの揺るがない「立場」を表明する、そんなものだと思っている。
けれども(上層部の意見の傾向はあるだろうが)きっと目に見えるような検閲だとか、記事を書くときのガイドラインのようなものが、具体的に存在し、個々の記者を縛っているわけではないのではないか。
記者はその所属する部門の長や、同僚の意見に耳を傾ける。その長はさらに上部の組織から意見される。個々の部門の存続と、自身の保身を秤にかけつつ、自己規制と事なかれ主義の蔓延が、なんとなく「論調」を決めていく。
そういう組織であればあるほど、一部の「組織の中で影響力のあるもの」の声が強く反映され、個々の成員には「無力感」が漂よい、組織に対する批判を「上送り」「責任転化」するようになってくる。
だがしかし、それでも「成員」は「成員」であり、そのような「論調」に対する責任は、各々個人が負う立場にあると思うのです。
ですから、少なくとも私はこれから、メディアに対して何か語るときは、その直接の発信者(記者)を意識した発言をしたいと思います。