[[つきせぬ想い]](イー・トンシン)ASIN:B00018GY1A

若く美しい恋人が、突然の病で命を失うというベタな展開ながら、かつてそれを観たときに『世界の〜』とは比べ物にならない感動を覚えたのが、93年の香港映画『つきせぬ想い』だった。

(『世界の〜』を読んでいるときに、この映画を思い出しながら、この本のダメさ加減を比較検討しつつ考えていたので、ちょうど先週18日にDVDがリリース―俺の誕生日だ!バースデープレゼントか?―されたのを知ってちょっと驚いたのだが、『世界の〜』がヒットしたから、同様の『難病美少女モノ』を急遽リリースしたのかなポニーキャニオン!?とちょっと興醒め。でもいい映画なのでやっぱりDVD化は嬉しい。)

なぜこの映画が素晴らしいのか?先の対比で端的に言えば出ている人物がみんな生きているということに他ならない。文章と映像の喚起力の差を差し引いても、『つきせぬ〜』でのヒロインや、彼女を取り巻く家族の描写、香港の裏町の描写は瑞々しく美しく、しかしなによりヒロインの死を受け入れて、皆が変わろうとするその姿が描かれるのがいい。

例えば、終盤のこんなシーン。

ヒロイン一家は街頭楽団で、ヒロインはその歌姫だったのだが、彼女が病に倒れたことで、母親が歌姫として復帰することとなる。
娘にその座を譲って以来、舞台からは退き、家庭を預かる母として捨ててきた『女』。
それが今夜、まさに娘が息を引き取るその晩に、化粧をひき、衣装に身を包んで舞台に上がった彼女の厳しく美しい歌声に、観客は歓声すら上げることができない。
その姿は、娘の死を受け入れるという、ゆるぎない決意の表れだ。

生きることとは変わるということだ。人は変わることで生の証を得る。
だから変わることを怯え、変われないことに悩み、変わることで幸福になったり不幸になったりする。
そして人が死ぬとき、その衝撃はまわりの人間を変え、生きることを再考させる。もっと言えば、人は誰かが死ぬことで生きている。なぜなら人は一人では生きていないから、例え恋人同士だろうと世界の中心で2人きりではいないから。

小説や映画で『死』をあつかうときそこに『生』が描かれていなければ、『死』によって人が変わらないのならば、その作品はそもそも『人間』を描けてはいないのだ。

そういえば『登場人物が現状を変えようとする努力をしないから阿部和重は駄目だ』というのは友人の言葉なのだが、わたしがシンセミアに感心しないのも、まさに『人間』が描かれていないその一点にあるのだよ。