『愛という試練』→『岡崎京子』→『そして80年代という話題』

『愛という試練』に対する言及
http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20031027

不可能なものを欲望し獲得に失敗しつづけているという欠落感ばかりたまってるから不幸で苦痛なのだ。本当に欠落しているのは自己主体なのにもかかわらず。

そんなにまでして愛されたいのか!id:hizzz氏は叱咤するのだった。アイタタタ。

さて同氏同日の日記経由、『サブカルアイドルとしての岡崎京子
http://d.hatena.ne.jp/sayuk/20031025#p1

・彼女を巡る視線は結局はデビュー時の自販機本の頃と同じレベル
岡崎京子がサブカルチャーな人々に全肯定的に受け入れられている構造は、結局はオトコノコのお遊び的だった(今でもそうかも?)「サブカル」が彼女をそういう「御しやすいフェミニズム」と認定してしまったからではないか
・サブカルチャーは岡崎京子の事故を契機に都合良く少女漫画(=フェミニズム)を「終了」させてしまったんじゃないの?

id:fizzz氏にかかるともっと辛辣

社会の要請する若く美しく賢くエッチという「オンナ道」を履修する(自分達=男社会のいいなりになった)御しやすい良い子であると男が見切り、そうして今現在、事故により執筆してない(=反応し変化することがない=侵食しない距離を保てる)から、いくらでも妄想をかさねられ使われる、いい玩具なんではないか。

デビュー時こそ自販機エロ本で描いていた岡崎だが、山田詠美内田春菊原律子ほど『エロ』を直裁に描いた訳ではなくて(春菊はもうそれこそエロスそのもののようになってしまったわけだし、原は漫画でのエロ表現をやり尽くして、さっさと退場してしまった。山田詠美の漫画って、よく覚えてないな)、普通の女の子が(雑誌の方針だかなんだかで)エッチなことしたりする、という内容だったから、『へえ、普通の女の子にも性欲ってあるんだ』と、多くの青少年は心を掴まれてしまったのだった。さらにこのあと、『PINK』で『へえ、売春婦にも脳みそがあるんだ』と、多くのナイーブな(苦笑)文化人の心を掴むことになるのだが、最後のほうの漫画読むと古谷実ふうなやりきれない暴力に関心が向かっていて(よしもとよしともとの類似性を感じていて)、そういうダークな話をたまに週刊アクションにでも連載して、異色中堅、くらいの位置づけでやってく人だったのではないかなあ、と勝手に想像したりする(育児本出しちゃったりして 笑)。
もう世の中セックスより暴力の方が魅力的(セックスはぜーんぜんタブーじゃなくなったけど、人殺したらちょっとヤバイもんね)というのを漫画ではわりと早く指摘してたという部分が、再評価の核なんだろうけど、それにしたってもう山本英夫が『殺し屋一』で暴力と肉体改造やりつくして、もう次は脳だ!と言ってるご時世に、『ヘルタースケルター』はいかにもぬるいし(ついでにいうとその後にでた『蛇にピアス』に今更驚いている芥川賞選考委員というのもひどいな。村上龍ではないがあきれるぞ)それであるのに、過度な思い入れ、持ち上げ、再評価があるのだとすればその正体はやはり、『若く美しく賢くエッチ』信仰だったんだ!

ここで駄目なナルシスの告白
うわー、これ全部、おれのことじゃないの!おれ今回、80年代の罠にめちゃめちゃ嵌ってるし!なんか20年経って批判にさらされてるし!