『サクリファイス』(近藤史恵)

サクリファイス

サクリファイス

推理小説とは本来、人間の考え出したもっとも優雅な遊びの一つであり、すぐれた作家たちは洋の東西を問わず、その精神だけはしっかりと守り抜いてきている筈です。推理小説が現代の現実に照らしてもおかしくないものになることと、優雅な精神を忘れ去ることとはまったくちがいます。
現実性をとり入れたければルポ・ライターのごとく取材に駆けずりまわればできる。しかしミステリーの精神を正しく伝承することは作家としての真の成熟をまたなくしては決してできることではないのです。

中村雅楽探偵全集1 團十郎切腹事件(戸板康二 東京創元社)収蔵
「講談社文庫版解説」 小泉喜美子

ミステリーが優雅であらねばならないという小泉氏の主張には、この項が発表された時期を差し引いても異論はあるものの(81年刊)、現実性とミステリーの関係への言及に、現代においてある種のミステリに抱く違和感を改めて考え起こす契機となった。

近藤史恵『サクリファイス』は自転車ロードレースを題材にしたミステリーである。タイトルに込められた寓意が謎の鍵となるわけだが、それを補強するべく、登場人物の、ある特殊な性向を正当化するために、ロードレースそのものが、ある種独特な世界観の上に成り立っていることが強調されている、ように読める。

ロードレースに携わる人と直接話をしたことも、それに関する書物を読んだこともないので、その描写がどれほど真摯なものなのか、あるいはトリックに説得力を持たせるために曲解されたものなのかは図りようがないのだけれど、物語の中心に配置されるある『死』が、とても特殊な動機に導かれていることは確かだろう。

これは作者の責任ではないのかもしれないけれど、この物語に寄せられる『感動』『泣ける』という賛辞は、その『死』の特異さを隠蔽しているような気がするのだ。ある種の境遇における『死』の物語が、その人間の《境遇ゆえに》に正当化されることが許されている、あまつさえ人の涙を誘うとしたら、これほど不気味な絵図はないのではないか。

であるからこそ、そんな特殊な『死』を前に、どうしたらよいのか判らず茫洋と佇む登場人物にこそ感情は同化し、そこに現代の『死』を巡る不条理の一端を垣間見るようで、爽快とも感動ともかけ離れた居心地の悪い読後感が残った。