『誰のための綾織』絶版問題つづき

山口貴士弁護士のブログで、今回の【盗作】を指弾したサイトに対し、検証がなされている。
http://yama-ben.cocolog-nifty.com/ooinikataru/2005/11/post_0e8f.html

エントリーも既に3回を数え、コメント欄でのやり取りも活発である。
【盗作】=【悪いこと】=【懲罰としての絶版は是】というひとつの極端な意見に対し、【参照】=【創作活動】=【見せしめとしての絶版は非】という反対の極の意見がでることは、バランスを取る意味で健全だと思うが、そもそも盗用を『程度の問題』『誠意が足りない』『技が未熟』といった感情的にジャッジする側と、そういった感情論を排し社会秩序を律するための法律を擁する側で意見が平行線なのは当然で、この弁護士さんから『措置の再考を求む』とメールを送られた原書房の編集さんの心労を思うとお気の毒だなあという気がする。

【盗用】であるか否か、あるいは【盗用】とは何かということに対して私は結論を出し得ないでいる。
もっぱら今回感じたのは、原書房という出版社が、一般顧客から受けたクレームに対して、迅速かつ最も【適切に】処理をしたということ、つまりクレームをつけた側が完全に満足する解決法をとることで【火消し】したことに対する、納得と寂しい気分、である。

企業のWeb、広報、法務担当なら誰であれ感じていることであろう、昨今はどの企業もコンプライアンス(法令遵守と企業倫理)を制定しなさい、顧客に向いた経営をしなさいと経営コンサルタントに吹き込まれ株主総会で吊るし上げられ、ビビった経営者の号令の下、担当者はインターネットに目を光らせクレームメールを熟読し、今日もお客様に失礼のないよう、対応をし続けなければならないのだ。

もちろん、法令遵守と企業倫理が大切なことはわかる。しかし、世の顧客の多くは、お金さえ払っていれば何を言っても良いと考えている【顧客さま】だ。電車が遅延するたびに駅員を吊るし上げる手合いが、ネットというルサンチマンに市民権を与える(中原昌也『シネコン!』での発言)】装置を通してより図々しく慇懃に送りつけてられてくるクレーム対し、担当者がことなかれの対応をしてしまうことに私は同情してしまう。

もちろんそれは、特に表現に関わる企業にとって自殺行為かもしれない。だけど自殺する側を責めたところで、なにも問題は解決しないじゃないですか、とほほ。


※参考になりかつまたうむむと唸ったご意見
http://d.hatena.ne.jp/leibniz/20051109
http://d.hatena.ne.jp/matsukura/20051109/p3