経験とカン

ヱビス<黒> ポスターより

ヱビス<黒>の原料となる黒麦芽は、麦芽を、専用のロースターでじっくりローストして作られます。ローストの程度には、いまだ長年の経験とカンに左右される点も多く残っています。熟練の技術者が、220℃から230℃の温度を維持しながら、頻繁に麦芽の焦げ付きを目で確認し、3〜4時間、場合によってはそれ以上の時間をかけてじっくりローストしていきます。
http://www.yebisubar.jp/kodawari_html.html

へえ。相当量を生産すると思われる工業製品であっても『経験とカン』に頼る部分があるのか。製品の質にバラツキが出ないものかな。

職人の技量を修辞する言葉でよく、好意的な意味で『経験とカン』が使われるけど、経験則をモデル化し数値化することをせずに、個人の記憶という曖昧なものを参照しているだけという伝達能力の不備の、体のいい言い訳としてこの言葉が用いられることも多いのじゃないか。

言語化や数値化が難しいビジュアルでの記憶や、正確さを求められる材質の組成や外部条件も、今ではビデオもあるし、各種計測器が安価に使えるであろう時代である。

そこまで言わなくとも、例えば『天気によって茹で時間を変えるラーメン屋』なんてのは、その日の気温と湿度に対して、最適な茹で時間を一年間もマッピングしておいて、あとはそれを壁に貼っておけばバイトでも出来るだろうという話であって、それを『経験とカン』が必要だ!と一々弟子に実験を重ねさせ、硬かったり柔らかかったりした麺を食わされた客迷惑!みたいなことを、職人気質みたいな言葉で賛美するのはどうかと思う。

かつて『ミスター味っ子』のエピソードで、『経験とカン』で最高のパスタを茹でる職人と対決した味っ子が、『茹で上がりまでの時間を時計を見て覚えておく』という方法で勝利した回があって、『技量』という言葉に隠された怠惰と欺瞞を鋭く批判したエピソードとして(一休さんみたいだね)印象深く記憶している。

実際、優れた職人であるのなら、試行錯誤の蓄積や実験結果の記録、みたいなことは当然のごとく行っていて、むしろ複数の計測結果の関連性であるとか、時系・空間に沿って変化する事象の把握・解析、といった計算を瞬時で行う方法を身体化している、というべきで、これを『経験とカン』という言葉で表すことには一片の異議もない。

しかし学校における理系教育、とくに実験プロセスの軽視や、単純化・速達化されていく一方の伝達言語を鑑みると、むしろ今後は若年層における『経験則のモデル化』能力の欠如が、様々な産業において弊害となってくるのではないか、そんな気がする。その基本なくして『経験とカン』はありえないし、単に『手づくり感を醸し出す』修辞としてのその言葉は、あらゆる産業に対して害を成すばかりである。