『ホラー映画の魅力 ファンダメンタル・ホラー宣言』(小中千昭・岩波アクティブ新書)ISBN:4-00-700086-7
妻の両親、つまり義父母が、ビデオカメラを買うので機種選びに店までつきあって欲しい、と言う。まもなく私の息子、義父母にとっては孫の幼稚園の運動会だから、という理由である。
これは孫の運動会に持っていくビデオカメラも買えないふがいないムコに、優しいじいやとばあやが手を差し伸べたと言うことなのだろうか、実際購入したカメラは『使えるようにしておいてね』の一言と共に、私の手許に今残されている。
人並みにデジタルガジェットに物欲のある私であるから、デジカメ欲しいな、とか、パソコン換えたいな、などとはぼんやり思ってはいたものの、DVはまったく興味の対象外なので戸惑った。とりあえずテープを入れ、家のウチソトを撮ってモニタし、昨今のDVの映像クオリティに感嘆してしまうと、もうやることもない。
思うに、映像は重荷なのだ。
同じデジタルによる視覚記録媒体であるデジタル写真は、その『軽さ』ゆえにそのものではメディアとして成立しないので、文字を添えて物語を補完したり、記念物として電送/配付されたり、またそのツール(パソコンとか携帯とか)も安価であるために何か価値のあるモノに加工が容易であるのに対し、撮っただけの映像などはまったく価値のない屑で、しかも技術的に加工にかかるコストが『重い』。
にもかかわらず、幼稚園の入園式に行ったときは、これは誇張でもなんでもなく私以外のお父さん全員がビデオを回していたのを鑑みると、なにか世の中には自分の子供をメディアに記録せねば気が済まない熱病でも流行っているのだろうか。あるいはみんな『あいのり』の見過ぎで、四六時中カメラの前で演技することが普通だと思ってるんじゃないだろうか。
つまり、記録された映像を加工/鑑賞/コレクトすることが目的なのではなく、ファインダー(『テレビ』カメラ)の前と後ろで、見る者、撮られる者の関係を演じることが重要なのかも知れない。人生のテレビドラマ化。バラエティ化。
小学校4年生の時に、クラスで『ディベート』をする授業というのがあって、『テレビは良いか悪いか』というテーマに対し『悪い』の急先鋒に立った私は、『テレビを見過ぎると、本当と嘘が区別がつかなくなるので、悪い』と論を張って、誰にも支持されなかったのだが、確実に人はテレビの一部となっているようである。
で、表題の本はそんな映像と視聴者との関係が変貌しつつある今の日本において、いかに映像で『物語内リアリティ』は伝えうるか?という実践と格闘の記録。映像が『見るもの』から『撮られるもの』へと安直に乗り越えられるほど価値のインフレーションを起こしている中で、しかしハリウッド大作のような『絶対素人では実現不可能な映像の製作(巨大なセット、莫大な費用をかけたCGI、あるいは大勢のエキストラ)』が不可能な日本映画やビデオ映画が産み出した究極の一手『疑似ドキュメンタリー手法』。まるでテレビ/映像を模倣する日本人を『更に』模倣したかのようなこのフォーマットの中に、『物語内リアリティ』を損なうこと無く、細心の注意で一点の『恐怖』を注入すれば、それは恐るべき伝播力をもって人々のなかを駆け抜ける。『恐怖』が、見つめている画面から、見ている(見られている)自分の背後に回り込むのだ!
などと考えていたら、本当にカメラを回すのが恐くなってきました・・・