映画を大切にするということ

先週は自分が主催に廻ったものも含め、ふたつの『自主映画』の上映会に立ち会った。

学生時代を含めて、自主映画は見る機会も少なく、初めて触れるインディペンデントな興行の実際は、会場に集まった人いきれや、暗闇に浮かび上がる映写機の光線で醸し出される『場』の高揚感はなかなかのモノで、これを自分たちの手で作り上げた達成感には、なるほど人生を棒に振る若者がいることに合点もいく。
反面、8日の『寿龍電影祭』http://www002.upp.so-net.ne.jp/harapeko/888800mile/において寿時氏http://abica.net/よりご批判いただいた『映画が大切にされていなかった』という指摘、我々主宰者がその『高揚感』に酔いしれ、イベントそのものを自分たちが楽しんでしまったあげくに、お客さんに映画を観て楽しんでもらうという根幹(映写方法であるとか、MCのありかたとか、終映後のフォローであるとか)の欠如、率直に言うと作品とお客に対するデリカシーが欠けていたのではないか?という指摘は、批判の対象である自分と鋭が、映像を職としているだけに、その映像に対する日々の弛緩した姿勢を批判されているようで、冷水を浴びせられたような心持となった。
(何より、そのイベントを実質的に仕切った寿時氏に対し、会場で充分なお礼も伝えていないのだから言わずもがなである)
これはもう、猛省を自らに促すしかないわけで、またこの批判をいただいたことだけとっても、今回の開催は自分にとって意義があったと寿時氏に感謝する一方、『映画が大切にされていなかった』というフレーズが頭にこびりつく。

先日、以前にも引用した東京新聞崔洋一の連載に、ある学生映画監督のイベントに招待された時の印象が掲載されていた。そこで崔は、彼ら学生監督の映画を、デジタルカメラにより、安価に、手軽に作品が作れるという、学生にとってのその効用はみとめつつも、その利便性にもたれ掛った安易な姿勢が目に付くのではないかと憂慮しつつ、『君たちには金も機材もないけれども、時間だけはあるではないか』と、丁寧な映画作りを心がけてはくれないかと『懇願』するのであった(『叱責』ではないところが崔の優しさ)。

つまることろ、崔のいう『丁寧』とは、『映画を大切にする』ということ、作品そのもののクオリティや作家性のみならず、そこに観客の姿を想像しながら映画の質を高める志向性があるかということであり、それはもしかしたら、プロデューサーと呼ばれる能力と同義なのかもしれない。

さてこうした観点にたち、先週観た『自主映画』数本に対する批評を行ってみたい。
(始めに断っておくが、これは自分が厳しい批判を受けたことの意趣返しではない。以下に批評の対象とする人々は、批評を自らの糧とすることが出来る人たちだと信ずるものである)

先ず『寿龍電影祭』であるが、これは初めから寿時氏『ガジェット』は分が悪かったと言わざるを得ない。Matthew Allen 『Soldier』の35ミリは別としても、ドラゴン・リーのDV作品は、留学先の学校のカメラ・照明・録音等の機材や、俳優をはじめとするスタッフの充実が、単純な映像のクオリティだけとっても明らかであり、同時にスクリーンに投影される『映画祭』という形態の中では、映像や音声のチープさは度外視し『内容で勝負』という自主映画のコードは成り立たないのでないかと『ガジェット』を見て思った。

これは10日に観た『スミスの法則』にも当てはまるのだが、『映像』には気を配って(凝って)絵作りをしているのに『音声』にはどうしてもう少し気を配れないのだろう?同録の簡易さはわかるが、遠く(に映っている)の人物の台詞が聞き取れないとか、床を踏み鳴らす音がするとか、カットによってノイズのレベルが変わるとか、私が偏執的なのではなく、映像鑑賞を妨げる致命的な欠点だと思う。

デジタルカメラによる同録の、必要以上の臨場感も頭が痛いところだ。例えば今放映されている『水戸黄門』など『カツラをつけた俳優が演技をしていところ』にしか見えないのであって、ましてや非職業俳優が台詞を口にするところを、自然に見せるのは至難の業ではないか。

『ガジェット』であれば、呵呵大笑するもうひとりの私を際立たせる為に、音や絵の階層をハッキリと区別する工夫があってよかったのではなかろうか?俳優の衣装だけしかルックが変わらないのは説得力がなく、両者が同一人物であるという作品の肝が、観客に充分伝わらない。

『スミスの法則』http://www.wont-lovers-revolt-now.com/は、革命評議会(?)のパートなどは『演劇的映像』として成立していると思ったし、なにより土佐正道の得体の知れなさは一見に値する。が、PV的な『おいしい画面』はちゃんと撮れているのに、状況説明の会話部分等は上記の欠点も含めて、楽しく撮れていないという印象が残る(従って、楽しく見られない)。
これだけのメンバーの先頭に立ち、資金を集め、規模の大きな公開にまで漕ぎ着けた下郷プロデューサーhttp://www.alles.or.jp/~shimogo/の手腕に尊敬の念を抱きつつも、もう少し観客と作品との接点に気を使ってはもらえなかったかなと思わずにはいられない。

『ドラゴン・リー氏の諸作品』は、氏の連載http://www002.upp.so-net.ne.jp/harapeko/samurai/のテイストから、相当ハチャメチャなものを想像していたら、意外にも(失礼!)まともに映画だったのでちょっと失望(笑)。まともに映画ということは上記に照らすなら、何が映っていて、何を言っていて、何が起こっているかが明瞭であるということで、それは先に行った『学校の機材・スタッフの充実のなせる技』なのか『本人の技量』なのかわからない。ただ難しいのは『まともな映画』が面白いわけではないという事実であり、実際、最初の一本を除く作品は、『一幕モノの戯曲を映像化したもの、もしくは捻りのない一発ギャグの映像化』でしかなく、あまり面白いものでもなかった。では『戯曲を映像化する技量』であるとか『ギャグのセンスを磨く』とかいった精進が、氏の映画を劇的に面白くするかといえば、それはもちろん観客の満足度は上がるだろうけれども、それは何もドラゴン氏がやることなのだろうか?他の誰かでも、演出の巧い奴やギャグの面白い奴はいるよね?
というわけで、一本めに上映した『Flying Tiger and Chasing Dragon』、ドラゴン氏がでかい男と喧嘩して、追いかけられて、捻りのない(笑)ギャグをかまして、というだけの作品が、結果的にお客さんに一番受けた理由、集まったお客さんが期待していたものに、最もフィットした内容だったということを、ドラゴン氏は念頭において、セルフイメージをアピールするような作品を(幸運にも、受け入れられる愛すべきイメージを持っているのだから)作りつづけることを切に願う。