ほんとうにあった怖い話

ゴロちゃんのやってる『ほんとうにあった怖い話』について殊能将之先生が日記で、

「ほんとうにあった怖い話」で、子供に心霊写真を見せたあと、霊能力者の解説を聞かせたりしてるのは、ものすごく教育に悪いと思うけどね。
 ガキがオバケ好きなのはあたりまえだけどさ、霊能力者のセンセーに教えてもらうもんじゃないって。こんな番組見るくらいなら、墓地で肝だめししたほうがいいよ。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/mercysnow/LinkDiary/links04021.html

と書いていて、確かになと思いつつ、『教育に悪い』を直感的でなくちゃんと説明できるよう自分の言葉にしたいと思った。
何か得体の知れないものに出会ったときに感じる、怖さという本来肉体的な感覚が、説明という言語でショートカットさせることで脳のなかにパターンとして認識されちゃうと、『怖い』という体験にまつわる、理論ではかれない、遠回りの『感覚』を素通りしてしまうことになる。これは、想像力の欠如そのものだ。

賛否ある意見とは思うけれど、たとえば批評の場面においても、どこかしら言葉の端々に、この言語化できない、遠回りの感覚が見えてこないと、その批評は単なる言葉遊び、業界内の符牒を確認し合う儀式にしか見えない。

ついでに言うと、なぜ僕がこういうところで本やら映画やらの感想を書くのかというと、それを読んだ人がひとりでもいいから、その本を手に取ったり、映画に行ってくれれば嬉しいからで、その為には自分が感じた感情を書くしか僕には方法がなくて(アカデミックな言語を用いたところで、それは所詮アカデミックごっこでしかないし)、感情を吐露する以上、その感情が他人に伝われば嬉しいという、いささか下世話な下心だってもっている。

と思っていたところに、星野智幸先生のこの文章

他人の作品を論じるには、それだけの覚悟がいる。書評等で私の小説が批評されるときも、批評者がおのれの自我のために書いているような文章がしばしばあって(いわゆる「ためにする批判」)、そういうのを読まされると大変消耗する。その人の、自分を表出したいという欲望や野心のために、私の作品がダシにされた気がして不快だ。
http://www.hoshinot.jp/diary.html

ひああ、厳しいなあ・・・だけれでもやはり、高度にコード化された言語ツールを用いて作品を解体(デコード)し、再構築する文章って、所詮は知識芸を披露する批評プロレスにすぎないと思うし、もちろん興行という側面でそういう闘技場やレスラーは必要だろうが、作品に対して愛がある限り自我の吐露はむしろ礼儀として必要なのではないかしらん。誰に対してかと言うとそれはむしろ著者というより、他者全般に向けてのものなのだけれども。

なんだか話があらぬほうにずれてしまった。
えー、何が言いたかったかというとですね、さっき4歳になる息子が僕に口答えをするなかで、
『お父さんなんて霊だ! お空に飛んでっちゃえ!』
と言ってて、なるほどあの番組は教育に悪いと納得したという、ほんとうにあった怖い話。