『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』(保坂和志)

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

ヴィクトル・エリセの『マルメロの陽光』に出てくる画家は、庭木に茂るマルメロの実を描こうとする。幾日も幾日もかけてその色やかたち、光を浴びる美しさをキャンパスに塗り重ね描きなおし、そうして毎年実が熟し果て枯れ落ちるまで続けたあげく、落胆とともに絵を破棄する。

画家が描こうとするものは何なのか。マルメロとはこうである、というひとつの解釈に嵌りきらない、実のうえに積み重なる光や匂い、時間、そういった移ろいの集積が、マルメロに宿る美であるならば、その美をすべて描くには、画家はどれだけキャンパスに向かわなければならないのか。そもそもそのような美は、キャンパスに定着しうるのか。絵が完結してしまったが最後、美の可能性は、その絵が捉えた美の一面だけを残し、すべてついえてしまうのではないか。

だいぶ前に見た映画なので記憶もあいまいだが、そんな画家の、どこまでも揺るぎなく、そこにある美をとらえようとする、静かな、気高さのようなものが印象に残っている。

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保坂和志を読むと、あの画家の姿を思い出す。絵を描くという行為が、画家が自然の美を解釈「し得る」という前提のもと、その成果物として生産されるのでは「決してない」という姿勢は、そのまま「絵」を「小説」に置き換えると、保坂の姿勢に通じるものとなる。

生命なのか、人間というものなのか、あるいは人生なのか、そうした諸問題に対する正しい「答え」を、拙速に導こうとする考えに、保坂は抵抗する。人間には、一生をかけて堆積する、時間の厚みがあって、それらが一瞬のうちになんらかの評価がされるようなことは、正しいことではない。

けれども、今、世界の人々は、そんな重層的な人間の存在を軽んじ、記号のように互いを評価しあっているのではないか。安易な二項対立が、世間に不寛容を蔓延させてはいまいか。

人間全体の高さ・深さ・広がり・・・文学はそのような、簡単に言語にできない、人間の移ろいと堆積と美しさを、文章に書くという行為なのではないか。それは決して、揺るぎない主義や主張がなされるような、力強いものではないだろう。即座に答えを得られるものでもまた、ないだろう。

答えがないという宙ぶらりんに耐えながら、時間をかけて行きつ戻りつ、そこにあるかもしれない「真実」の周囲を堂々巡りするような、そんな行為。保坂はまた、それが「芸術」なのではないか、という。

最後に、一文を引用しておく

『文学の側はその速さ(早さ)に対応すべきではない。相手の土俵に乗ったら強い者でも負けてしまう。速さの価値は薄っぺらいのだから、「時間がかかる」と言いつづければいいじゃないか。文学にはそう言うことしかできないのだから。』