『密室殺人ゲーム王手飛車取り』『世界の終わり、あるいは始まり』(歌野晶午)
- 作者: 歌野晶午
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/01/12
- メディア: 新書
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『テレビばっかり見ていると、今に尻尾が生えてくる』かつて賢人がそう宣わった。幸いにも尻尾の生えた固体は確認されることがなかったが、気が付くと人々の頭の中身が尻尾の生えた猿の如きものになっていた。
猿の頭で人々は、愚かにも賢人の猿真似をしてみようと思いたち、『ホラー映画見たり、ホラーゲームやったりしていると、今に人殺ししたくなっちゃうよ!』と言うものが現れた。猿の頭で思いついたことなので、確固たる根拠のあるわけでなかったが、反証する側の頭も猿だったので、これを沈黙させる策も思いつかず、却って目立つ【有害ソフト】のシールを本体に貼るという猿知恵を披露したりした。
あれから数年。昨今では凶悪犯罪が起こっても、もはやゲームだの映画だの言う人はいないようだが、別にそれらが犯罪に無関係だと立証されたわけでもない。擁護陣営が勝利したわけでもない。それらは今もある。その状況に猿の頭は慣れて、言い募ることに飽きてしまっただけだ。シールで目を塞いでしまった、ともいえる。見ざる聞かざる言わざるが、賢い猿の処世術。
ところで、本当に尻尾は生えなかったのか。世に中には、フィクションの種から芽生えた尻尾を、現実社会で持て余している者たちもいるのではないか。ホラー映画やゲームに限らず、テレビ、漫画、小説その他あらゆるフィクションの、欲望の捌け口としての機能が先鋭化する(そこが一番お金が儲かる仕組みになっている)昨今である。ソフト産業は潜在する大衆の欲望をいかに発掘し、それを刺激する物語を作るかに腐心する。次々と新しい欲望が発掘され、受け手は自らの中に、自分でも気づかなかった欲望を植えつけられる。欲望が頭の中を溢れ出し、現実の生活のなかで折り合いがつかなくなったとき、それは顕在する尻尾となる。
いやむしろ「キモイ」だの「オタク」だのレッテルを貼り続けることで、この尻尾が普通の人に、普通に生えているものだということから目をそむけてきたのが、大人の猿の社会だったのだ。世の中の全ての人に、この尻尾はある。一個人のキャパシティを越えた欲望が、満たされぬまま眼前に晒されている状況(情報化社会とか資本主義とか)から逃れるには、それこそ崖ッぷちの洋館に、大金持ちの叔母様と引きこもるか、赤ん坊のころからリアルな猿に育てられるしかない。
※
現実と満たされぬ欲望との狭間での悩みは、旧来、青春の特権であった。大人とはそういうことに悩まない存在だ。そんな大人になるための少年少女向けの成長譚を手がけてきた書き手たちが、一般の小説読者に注目され、ジャンルを侵食する活躍をしだして久しい。ミステリにおいてもその傾向は顕著で、講談社『ミステリーランド』、東京創元社『ミステリ・フロンティア』、理論社の『ミステリーYA!』はちょっと微妙だけど、その作品群、あるいは、乙一、桜庭一樹、米澤穂信らの作品の、フィクションの枷から逃れることの不可能性を積極的に見つめる視線(いつまでも尻尾があると認めること)は、大きくなってもミステリなんか読んでいる人々(いつまでも尻尾がある人々)と、それを取り巻く現実社会をリアルに反映しているからこそ、受け入れられているのではないか。
これは、所謂『社会派』と呼ばれる作品の、ミステリの枠組みの中に社会問題を組み込む構造と根本的に異なる。ミステリであること、尻尾があることが社会の中でどう軋轢を生むのかという痛ましい心の記録。それがいまや普遍的な現実の鏡であると認識したとき、彼らの作品は新たな『社会派』と呼べるものになる。
※
歌野晶午『世界の終わり、あるいは始まり』『密室殺人ゲーム王手飛車取り』は、極め付けにハードボイルドな、そんな『社会派』の極北に位置づけられるかもしれない。
『世界の終わり、あるいは始まり』は、凶悪な犯罪を犯したと思われる息子の、内面を探ろうとする父親の物語。息子を怪物にしてしまった要因は何なのか。ネット?ゲーム?教育?そんな父親の内面がまた、ミステリ的思考というフィクションに犯されていて、現実には一歩も踏み出せないというジレンマが描かれる。
『密室殺人ゲーム王手飛車取り』では、ミステリマニアが自分で考えたトリックを現実化する目的だけのために、実際に人を殺める。それを巡る議論が小説としての技巧論にともすれば集約し、現実の社会から乖離した存在としてすまし顔をしている本格ミステリが*1、社会秩序を侵食し得る危険物として、血肉したたる断面が顕にされるのに、言い得ぬ不安を覚える。
他方、その構成はその本格ミステリの楽しみに満ちていて、思わず没頭してしまう自分をふと省みるとそこに、他人事ではないある種の欲望が疼いているのを見つける仕組みになっている。声高に社会問題を問いかけるでなく、きわめて飄々とした筆致で、しかしフィクション内に安穏と居続けられる都合のよいオチが用意されていないため、作品の後味の悪さが現実世界と地続きであることが、しっかりと読者の心に残される。
晒されるのは己の醜い尻尾なのだと、人のフリして生きている猿は独り言つのだった。
- 作者: 歌野晶午
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