『集合住宅の時間』(大月敏雄)
id:lovelovedog さんの日記にこんな記述があって
ダラダラと本の整理をしていたら、こんな本が見つかった。
『私の小説作法』(毎日新聞社学芸部編・雪華社・1975年)…司馬遼太郎が歴史小説はビルの屋上から人を見下ろして書くようなものだ、と書いていたり…
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070228/misima
たまたま先日読んだ、『集合住宅の時間』に記載されていた件を思い出した。
曰く、司馬遼太郎が昭和三十二年に大阪に建設された公団の高層アパートに住んでいて、その当時では類を見ない高所からの眺望(大阪中が見渡せたという)が、後の司馬史観に影響を与えたのでは?と。
【大阪のマンモスアパート】
http://kenchiqoo.net/archives/000350.html
技術の発達による、人間を取り巻くビジュアルの変化(林立する高層建築郡とか、遠隔地や超高度からの写真による高細な画像であるとか)が、人間の外部認識に変化をもたらすという考え方に興味があって、以前にも何度か書いた。
(もちろん元ネタは伊藤俊治の『ジオラマ論』)
【デジタル映像によって、画像の劣化がノスタルジーを喚起するというクリシェが失われるかもしれないという考察】
http://d.hatena.ne.jp/beach_harapeko/20061204/p1
【『宇宙戦争』のトライポッドは、20世紀初頭の都市に聳える鉄塔=科学の暴力のメタファではなかったのかという考察】
http://d.hatena.ne.jp/beach_harapeko/20050708
『集合住宅の時間』では、老巧化した集合住宅が今の若い人を惹きつけるのには、そこに残された、彼らは直接知らない人々の営みの痕跡が擬似的なノスタルジーを感じさせてくれるからではないか、というような指摘がされている。
日本という国は、建築に付随する歴史に無頓着で(というか生活の歴史一般に無頓着で)、とにかく古いものは跡形も無くスクラッチ&ビルドしてしまうという風潮の中で、自らの拠り所を見失った若い人たちが、アイデンティティのよすがとして、古い建物や廃墟に惹かれてしまう、ということがあるのだろうか。
ところで昨日、黒沢清の『叫(さけび)』を見たのだが、ここでも老朽化した団地、古めかしい警察署、打ち捨てられ廃墟と化したビルなどが主要な舞台となっている。この場合、建築に纏わりついた古めかしさは、そこに居合わせた人間を蝕む、目に見えないウィルスのように演出されている(無人に見える空間、染み、水浸しの廊下、そして絶えずなり続ける軋みや振動音)。
進歩の流れからズレつづけ、密やかに、しかして禍々しくも存在を誇示する時間の澱は、人々の感情を理由無く揺さぶる。時にそれは暖かな思いとなり、同時に不安の種と化す。
現代の怪談の舞台として、これほど相応しい場所もそうはない。
【団地百景】
http://danchi100k.com/
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