『犬神家の一族』(市川崑)

過日、どなたかのブログを読んでいたら、新版『犬神家の一族』について言及されているその中で、「松子が戸棚に祀ってあるカワウソかなにかの絵に手を合わせ云々」とあって(うろおぼえですが)、ああ、カワウソかあ・・・と思った。

あれは『狗神』なんですが(だから『犬神家』)、と言って私も偶さか伊丹十三小松和彦の著作で読んでいたので知っていただけで、映画の中では旧作でも新作でも、あれが『狗神』であることも、そもそもそれが何なのかも説明はない(と思います)。

『狗神』は大体、西日本の古い集落に伝わるもので、一種の憑依霊のようなものだそうです。それを生み出すためにはナニヤラ血生臭いやり方で犬を嬲ったりするのですが、その霊?を見ることができ、かつ操ることのできる一族が、あえて狗神を生み出し、それを家筋に「憑かせる」わけです。
ではその「憑き物憑き」の家筋は、集落で忌み嫌われると思いきや、むしろこの狗神を使役して一族が集落を収める、ひいては地方の豪族として君臨する、という構図があった。もちろん霊能力の発揚だけではなく、強権的な暴力による支配もあったでしょうけれども。

あるいは、犬神佐兵衛の遺言書を読み上げるシーンで『犬神奉公会』の人というのが出てくるのですが(新版ではカット)、これもあるいは『狗神』を信仰する霊的な(あるいは宗教的な)執行団体だったのではなかったのか。そもそも放浪の身であった犬神佐兵衛が、一代にして財をなせたのは、その地方において(非公式な)権力を執行するために、何がしかの霊能力を「憑かせる」ための「穢れた」存在が必要とされ、それをバックアップする団体である奉公会が、放浪のよそ者であった佐兵衛を祀り上げたという背景があったのではないか、とこれは想像に過ぎないですが、そんなことも思います(原作にあたれば、銘記されていることなのでしょうか?)

ともあれ『犬神家の一族』を修辞する言葉に、【因習に囚われた旧家を舞台にした惨劇】みたいなことがありますが、【因習】というのが【「憑き物憑き」の家筋】という前近代的な支配構造であることが、これらのシーンで垣間見えるわけです。

ところで旧作『犬神家』の公開は1976年。原作が執筆された1950年と比べれば、憑き物信仰に対する社会的な認知も大分薄れていたことでしょう。むしろ『家筋・血筋』『憑き物』『穢れ』という信仰は、差別的な迷信であるという啓蒙こそが当時の風潮だったのではないか(現代においては表現上の完全なタブー。故に?新作では犬神奉公会の人の存在がカットされた?)。にもかかわらず旧作の製作総指揮であった角川春樹は、これが血筋=家族の物語であると看破し(『わが闘争』より)、【因習に囚われた旧家を舞台にした惨劇】であることをメディアを通じて散々に煽った。だからこそ当時の観客は、これを一種の宗教的オカルト映画であると認知して映画館に向かい、恐怖をもって日本の消え行く因習に対峙した。

先に書いたとおり、旧作においても『狗神』の具体的な説明は何もありません。しかし松子が『狗神』を拝み、ふと気配を感じ振り返るとそこに犬神佐兵衛の姿を幻視してしまうあのシーンで当時の観客は、現在と比べ相当なリアリティと説得力をもって、【血筋】に支配された松子の心象を感じ取れたはずです。無残な死体の山が次々と、何者か己の血に流れる存在によって否応なく築かれるという、得も知れぬ恐怖。だからこそ、映画のラストでの、近代の申し子である名探偵による、これが普通の人間による普通の犯罪に過ぎないという解読が、前近代の崩壊=因習からの解放というカタルシスとして受け入れられたのではないでしょうか。

そうしてみると、現代においてこの映画をリメイクした時に、なにか現実と乖離した古典芸能に見えるのも仕方ないのかもしれません(http://d.hatena.ne.jp/ending/20070116)。現実に根ざすことのない(少なくとも表面上は)『狗神』などの怪異信仰は、なんだかいまや一種のオーガニックな風習として、自然志向なお嬢様方の癒しのアイテムになっているのですから。

ちなみに『狗神』の正体って、これとおんなじらしいです。癒し系。
http://www.mushishi-movie.jp/




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