『硫黄島からの手紙』(クリント・イーストウッド)
先に断っておくと、ウチは家内と、その影響で息子が嵐の大ファンなのである。どのくらいのファンかというと、一週間にオンエアされる、出演する歌番組、ドラマ、バラエティ、NEWSゼロ、コンサートや会見があったときには翌朝のワードショーをくまなくハードディスクレコーダに蓄積し、これらをまめまめしく編集しては保存用にDVDにダビングする、そんな具合である。
当然、夏のツアーの時期には、スケジュールをにらみつつ、可能な限り全国のコンサート会場を巡る。昨夏は私も、家族旅行を兼ねて仙台についていった。夜は友人と食事をすることにしていたが、昼は暇なので、後学の意味で私もコンサートに行ったのだが、たまさかその時は最前列の席があたっていて、5メートルくらい先からのメンバーの流し目やオーラを、ふへーという思いで浴びたものであるから、なんだか二宮和也のイーストウッド映画への出演の報に接した時は、まるで親戚の子供がデビューするかのような(おおきな勘違いではあるが)、そんな思いを抱いた。
しかも完成披露会見では(これもあとでハードディスクに収録されているのを見た)、イーストウッド御大を前に、すっかりリラックスを超え『イーストウッドをなめとんのか!?』と突っ込みたくなるくらいのフランクな態度だったので、ますます私の心配は膨らみ、大丈夫か、ニノ!?という不安な気持ちで映画館に向かったのである。
軽い。冒頭の台詞『墓穴掘ってんのか?↑』の台詞回しが、いきなり軽い。すっかりイマドキのワカモノのそれでびっくりする。良く言えば無駄な力が入っていない、自然体な演技で、それはそれで成立しているのがさすがに場慣れしているなと納得もするが、しかし射撃演習をしくじり、上官に首根っこ掴まれて文字通り持ち上げられて吊り下げられるという、まるでバラエティ番組のような場面にはびっくりする。軽すぎだろ。『驚きの嵐!世紀の実験 学者も予測不可能SP』でチェ・ホンマンと絡んだ時のことを一瞬、想起してしまう。
映画は、擂鉢山の要塞防衛に配備された二宮らが、要塞の陥落とともに自決することを良しとしなかった栗林中将の無線を立ち聞きしたことから、島の北部にいる本隊へと死地のなか向かっていく話が中心なのだが、その行程で米軍の銃弾をかいくぐったり、せっかく合流した上官に逆に殺されかけたり、まあいろいろ大変な目に次々にあう。
ところで、その最中、あるいはやっとのことで死線をかいくぐり、真っ黒でボロボロになったその時の二宮和也の顔が、やっぱりバラエティ番組(たとえば“嵐版・お笑いウルトラクイズ”ともいえる、数年前にオーストラリアで収録された特番『ウルトラストロングゲーム』)で、ゲームに失敗して水中に落ちて、疲労と徒労で“あ〜あ、やんなっちゃたな〜”という表情、あれに見える。ちょうどヘルメットも被ってるしね。
硫黄島の激戦で散った数万の英霊を鎮魂する物語が、お笑いウルトラクイズにみえてしまう軽さというのはどうなのか、という声もあるだろうが、まあ見えてしまうのは仕方がない(例えばそういう目で見てしまうと、加瀬亮の投降シーンなど、まるで人間性クイズみたいだ)。
まあそこは渡辺謙とか中村獅童とかが、もうお腹の底から重厚で、涙目の情感たっぷりなお芝居をみせてくれるから、鎮魂はそっちにまかせておくとして、問題はそんな『重厚な渡辺謙や中村獅童のシーン』より『お笑いウルトラクイズな二宮和也のシーン』のほうが、ときとして、ハッとなるような映画的な高揚を孕んでしまう、ということにある。
ここは重要な指摘なので再度言うと、今や国際的な俳優としての名声を掴み、国内においても映画賞を総なめにせんとする渡辺謙の『重さ』という方法論より、二宮和也のテレビ的な『軽み』のほうが、より映画に親和性があると思うのだ。
例えば、擂鉢山を脱出するところ、上官含め、部隊がほとんど自決したなか、己の信念で脱出行を決意したとき、それまでいじめ抜かれて来た小さな肉体があたかも膨れ上がったかのように『死んだ兵隊は役に立たないんだ!』と叫ぶシーンであるとか、死んだ仲間に千人針の腹巻きをかけてやる所在無さげな様であるとか、それまでの『軽み』との対比、その触れ幅に心が動かされてしまう(あるいは軽みをより印象づける意図で、例の“上官による吊り下げ”シーンが演出されたのだとしたら、イーストウッド恐るべし、である)。
でもなんと言ってもラストの砂浜が凄い。単にシチェエーションや絵面が似ているだけじゃん、と誹られるのを覚悟で告白してしまうと、もうあそこは岡本喜八とか深作欣二のようだと思った。考えてみると『独立愚連隊』も『バトルロワイヤル』も、『お笑いウルトラクイズ』みたいな映画だったし、もっと暴言を吐けば、すべての優れた映画はどこかしら、『お笑いウルトラクイズ』的な要素を持っているのだろう。
だから、この極めて『社会的なテーマを前面にした真面目なプロジェクト』に、極めて職人的に取り組んだイーストウッドが、二宮和也という極めて映画的な素材を前についついむらむらと『お笑いウルトラクイズ』を押し出してしまったのは、もちろん優れた映画作家であるイーストウッドであるからには当然のことであって、そうでなければ絶対に、あの奇跡のような涙を画面に捕えるような芸当は成し遂げられなかったに違いないのだ。
というわけで、二宮和也くんという映画スターの誕生である。デュカプリオあたりは、きっと彼の才能に嫉妬するだろうがご安心。ニノが輝くのは、映画が『お笑いウルトラクイズ』であることを知っている、ごく一部の監督の下でだけなのだから。
※上記書いてから思ったのだけど、イーストウッドには、“ケビン・コスナー版『はじめてのおつかい』”ともいえる『パーフェクト・ワールド』というのもある。再見しておきたい。