セピア色

ジオラマ論―「博物館」から「南島」へ (ちくま学芸文庫)

ジオラマ論―「博物館」から「南島」へ (ちくま学芸文庫)

伊藤俊治の『ジオラマ論』という名著があって、それによると20世紀初頭の交通機関と光学技術の進化が、片や『高度・距離・スピード』という体験と視点を、片や『写真・映画』という現実認識の変化を、人間に及ぼしたという。

例えば鳥瞰という視点がなければ、私たちの空間認識は、目に見える路地や建物の連続するビジョンとして記憶される(地図が読めない子どもがそうだ)。しかし、頭の中に『上空から見下ろした平面図』である地図を思い浮かべることによって、一人の人間が把握できる空間は、ご近所から世界へと大きく広がる。この『上空からの視座』は、科学技術の発展があったからこそ、人類が獲得できたものだ。もちろん太古より、高い山や樹上からの視点は存在していたが、高層建築や航空機の発明により、この視点は全ての人類にとっての普遍的なものへと変化した。そこではまた、印刷→映画→テレビジョンと技術革新を重ね、発展を続けるメディアの伝播力が大きな働きをした。

今でも、私たちの『世界の認識の仕方』は、気づかないうちに日ごろ接するメディアの影響を大きく受けている。例えば『セピア色の思い出』という言葉がある。テレビなどを見ていても、回想シーンになると画面が『セピア色』になり、スクラッチノイズなどが出たりするクリシェがあるが、実際に昔のことを思い出すときに、くすんだ色のビジョンを思い浮かべる人もいるのではないだろうか。あれはもちろん、退色した古いフィルムを模したもので、つまり『セピア色の思い出』という言葉は、『思い出』という人間の内部の記憶が『フィルム』という具体的なメディアの特色を借りてイメージされている。

退色したフィルムのイメージは、個人の記憶だけではなく『過去』に対する認識としても動員される。古い時間は退色し、過去はくすんで朽ちていく、そういう思い込みがある。スティーブン・キング原作の『ランゴリアーズ』というテレビドラマをたまたま見たことがある。主人公たちが『打ち捨てられた過去』の時間に飛ばされてしまうというもので、そこは『現在』とそっくりに見えているけれど、気温は低く、匂いもなく、食べるものには味がないという世界だった。やがてそこにでっかい団子虫みたいな怪物がやってきて、不要になった『過去の世界』をバリバリ食べてしまうのがクライマックスなのだが、ドラマを見終わって心に残ったのは、主人公たちが飛ばされる『色も匂いも味もない過去の世界』という設定の、妙に切ない説得力だった。

だから昨今、昔のドラマや映画がデジタル・リマスタリングされたやつを見て、一瞬ギョッとすることがある。過去のものとして、無意識に距離を置いていたはずのそれらの映像が、その鮮やかな色彩のおかげで、現在進行の私たちの時間に平然と併置されてしまうことで、時間の遠近法に乱れが生じるからだ。

映像コンテンツのデジタル化自体は以前から存在する技術だったが、最近まで過去作品のアーカイブには、一定の距離を持っていられた。これらの過去作品の商品化されたもの、それはDVDだったりネット配信だったりするのだが、どちらも『過去作品の使い回しでございます』といった日陰のイメージがあったからだ。新しい作品に目を向けられない、懐古趣味に浸るおじさん消費者の気持ちを反映したような、棚の隅っこでの控えめな感じ。
ちょっと話が逸れるが、音楽のほうは、もうだいぶん前から旧作が堂々としているような気がする。過去の名盤と呼ばれる60年代〜80年代の音源がどんどんリマスタリングされ、名盤とは呼ばれないが、知る人ぞ知る音盤もどんどん発掘されて、CD屋さんの棚に並んでいる。音楽にはクラブという再生の場所もあるし、iPodみたいな他人の目(耳?)を気にしないデバイスもあるので、そこで古い音楽がたくさん棲息できるのではないか。

iTunes Music Store が始まって、その傾向は加速している。ITMSの凄いのは、もちろんネット経由での音楽配信であることもあるがそれ以上に、あれがネット史上最大の、使える音楽データベースであることが大きい。
データベースは『時間』を無効にする。データベースの前では『新譜』であるということは、時系列のビューでの最初のほうの項目、でしかない。強力な検索機能さえ完備されてしまえば『新譜』も『旧譜』も価値として同等になってしまい、むしろ価値を生むのは、そのコンテンツ(とあえて言う)に付与する、評判であるとか、利用頻度といったメタ情報だったりする。

今では『時間列のビュー』が最もポピュラーな検索キーなので気づきにくいが、例えばブログのことを考えてみるとわかるかもしれない。

Googleで何か気になる言葉を検索してみたら、それが自分の過去の書き込みだったことがあるだろうか。それを読んだときの奇妙な感じ。そこには確かにそのときそのことを考え、推敲した結果の自分の文章がある。だが、それを行っていたときの自分自身の気持ちは自分の中には痕跡を残していない。にも係らず、なんといっても自分のしたことなので、はっきりと自分でそれを書いたであろうという確信もある。

なんというか、自分自身と違う自分がそこに生々しく存在していて、現在の自分と向かい合っている感じ。

過去の日記帳を読む恥ずかしさ、というのとはちょっと違う。なぜかと考えるに、日記帳は実際に紙の製品として存在するので、必ず経年劣化する。ページが黄色くなるとか、文字が滲んでるとか、そういう物理的な時間の経過を示す証拠が、現在と過去との距離感を保障してくれる。
一方、ネットの書き込みは、経年による変化がない。もちろん、個人サイトからブログへという形式の変化に時系列を感じることはあるが、CMS化による文章のコンテンツ化が完備されれば、データベース上では今日書いたことも10年前のエントリーも同質だ。

また話が逸れるけれど、昔『関心空間』上で、ネット墓守という概念が話題に上ったことがある。ブログを書き続けている人が死んでしまった後、そのコンテンツを守り、アーカイブしてくれるというサービスが想定されていた。
ところで、Googleは今、単語検索の機能しかもっていない。はてなのキーワードリンクも単純な同一単語リンクに過ぎないけれど、例えば将来、文章の意味を解析して、類似の話題や文脈のブログのエントリーを検索・リンクする機能が発明されたとする。そのとき、ある人が書いたブログに、別の人の書いた過去のエントリーが参照されて、さて、そのブログの書き手が既に死んでいたら、それはなんというか、さぞや複雑な気持ちだろうなあ、などと思ってしまう。

旧作映像のDVDパッケージや、データベースとして整備されていない初期のネット配信映像は、このたとえで言うと『過去の日記帳』に近い(旧譜のCDもちょっとそうだけれど、PCで音楽を吸い取ることが一般化したあたりで、CDのパッケージメディアとしての意義は大半が失われている)。
どんな美麗なパッケージも必ず劣化するし(買ったとたんに屑になる、とは80年代の立花ハジメYMOのアルバムに対する発言)クローズドなネットサービスは必ず賞味期限がある。

一方、ITMSやブログのエントリーのように、ユーザが任意の検索キーやビューを設定できるデータベースは、デジタルコンテンツを本当の意味で経年劣化のないコンテンツに生まれ変わらせる。そこで参照される『過去のデータ』は、受け入れる人間が全体を見通せないほどデータベース自体が巨大であれば、未知であるというその一点において、『新譜』と変わることがない。

映像はまだそこに至る過渡期で、でもCSやCATVなど配信のデジタル化、HDDレコーダによる扱いやすさの向上で、ますますタイムレスなコンテンツになっていくのだと思う。

けれどもまだ、フィルム劣化に端的にあらわれる、映像の経年劣化のイメージが染み付いている僕らの世代は、いつまでも色褪せない昔の映像にギョッともするのだが、例えば生まれたときに既にDVDが家庭にあり、CATVで再放送も本放送も区別なく視聴している子どもの世代には、『セピア色のノスタルジックな映像』という概念そのものが存在しない。
もしかしたら、彼らが成長したときには、その成長過程における全ての思考や視聴の記憶を、タイムレスに参照しうる世界観というものが、新たに確立されているのかもしれない。

でも僕らだって、戸惑っているだけではつまらない、と思う。

本当は、セピア色のフィルターの向こうにあった、色鮮やかなビューこそが、その時代に生きた人たちの『気持ち』だったのではないか。時間や距離を隔てた向こうにあるものが、今まで、メディアの限界で曇らせされていたに過ぎないのだ。
だから、デジタルアーカイブの時代には、懐古主義に陥ることはよそう。目の前に示された、繊細な細部におののきながら触れることで、遠く隔たった人間の吐息を感じられたら、きっとそれは面白いことだろう。