『時をかける少女』を伝説たらしめる3つの背景

よかったよかった。細田守&奥寺佐渡子という贔屓のひきたおしの二人の共作が、よもや傑作にならないとは思っても見なかったものの、まさかここまでの好評の嵐。
初日にテアトル新宿を訪ねた思い出が、伝説の始まりに立ち会ってしまったようで、もはや誇りにも感じられる(勘違いですね)。

伝説。そう、この現象はもはや日本アニメーション史上、ひとつの伝説になろうとしていると思うのだが、ことさら僕が強くそう思う根拠となっている、3つの背景をあげておきたい。
伝説とはいつも、歴史の転換時に生じるものであり、日本のアニメ産業もまた、新しい曲がり角を迎えようとしているから。


1.ジブリブランドの正念場

細田氏がかつて、宮崎駿の後継者候補として(?)招聘され、結局作品を制作できぬまま去ることになったスタジオジブリ。もはや有名なこのエピソードを知るものにとっては、その後、駿氏の後継者となった息子の作品が「時かけ」と同時期に、しかも比較にならないほどの大規模・大量宣伝に「護衛されて」公開され、しかしながら作品としては最低の出来であったという事実には、判官びいきに似た、痛快なもに感じられたはずだ。
すべての組織は経年劣化するもので、それはジブリも変わらなかった、というだけのことだとは思うものの、商業成果とクオリティを同時に満たす数少ないスタジオとして、業界を象徴的に牽引して来たジブリが、これからどのように立て直されていくのか、というのが楽観的な見方で、たぶん現実的には、今後ジブリは過去の作品のキャラクター版権を生かしつつ、最低限な制作体制をかろうじて維持するような組織になっていくのではないか。


2.フジテレビの参画

もう一本の大作、「ブレイブストーリー」もまた、観客の評判が芳しくないと聞く。だがこれを以て「たとえ亀山Pであっても、アニメーションを仕切ることはできない」「フジテレビはGONZOジブリにしようとして失敗した」と言うのは早計だと思う。
「ブレイブ」の瑕疵はおそらく、脚本化の際の方向性にあるのであって、正味この作品を、しかもフルデジタルでもって2年足らずで作ってしまったことによる、技術的な蓄積はとてつもなく大きいものだと思う。
極論すれば、演出者や脚本家は、都度優秀な人材を集めれば良いが、制作体制(スタジオ)を一から構築することは容易ではない。いまの日本映画界に最も不足しているもの、あるいは映像産業振興などを(言葉だけで)ふりかざすお役所に欠けている視点は、いま現在必要なスタジオとは何か、ということである。それを理解し、「コンパクトな制作人数」「強力なサーバ」「柔軟なネットワーク」で、現在型のスタジオワークを実践してしまったフジテレビには、心底感服せざるを得ない。
今後、フジテレビは、劇場用アニメーションのみならず、放映されるアニメ作品を自社制作でまかなっていくつもりではないのか。もはや、日本でもっとも興行収入をあげる映画会社となったこの局は。


3.そして凋落するのはどこか

知らない人は全然知らないことだろうが、今年、東映アニメーションは創立50周年を迎えている。
上記で話題に出した、宮崎駿細田守の出身地であるこの大手アニメーションスタジオは、50周年創立記念として、過去作品の大規模な配信事業を行ったり、ウォルトディズニーとのTVアニメーションの共同制作、白蛇伝のミュージカル化など次々と事業を打ち出している。

http://www.toei-anim.co.jp/corporate/press/index.html

いわば近年の「ジャパニメーション・ブーム」の旗頭として、空前の好景気に湧いている感のある同社であるが、しかし、肝心要の50周年記念劇場長編が発表されていない。

ジャパニメーション・ブーム」とは何だったのか。それはすなわち、版権商売に他ならない。一過性のブームに煽られ、原資のかからぬ「版権料」を上手にビジネスにするものが、濡れ手に泡の利益を手にする。まさにバブルの名にふさわしい、そんなビジネスモデルに、国から奨励されるままに乗っかって踊っている・・・一方で、長編(もっとも価値のあるコンテンツ)を企画立案する能力は、疎んじられ、どんどん制作能力が落ちていく。

なに、テレビ作品はいっぱい受注しているさ、などと安閑しているうちに、ほら、テレビ局が自社制作の基盤を作り上げているじゃないか・・・・

現在、日本の映像制作をめぐる「海外版権」の甘い罠は、多くのスタジオを気付かぬうちに危機に追い込んでいると僕は思う。いま必要なのは、制作体制を最適化するデジタル制作基盤を、如何に安価にかつ迅速にくみ上げることが出来るか、そしてそこで如何にクリエイターに力を発揮させるか、という仕組み作りに取り組むことで、それは即ち、これからの撮影所というものがどうあるべきかという理念であって、それを持たない組織は昨今壊滅するだろう。

そんな背景を思うと、細田守の描く「未来」にこそ、クリエイターが牽引する日本映画の未来を重ねてみたいという、淡い希望を託してしまっている。