『DRAMA COMPLEX ミステリーの女王 山村美紗物語』(24日 日本テレビ)

通勤電車の中で、隣に座っている人が何を読んでいるか気にかかる。行儀の悪いことと知りながら、ついつい横目でページを覗き込む。

《…オカンは田舎にいるときよりも…》
《…おみゃあさんが犯人だなも!…》
《…十津川は…》
《…キャサリンは…》

ああ〜、見た瞬間にわかるから、当てる楽しみがな〜い〜(涙)

それほどメジャーな西村京太郎と山村美紗だが、私はその著作を読んだことは殆どない。それどころかこのお二人には、1980年前後に誕生した土曜ワイド劇場をはじめとする2時間サスペンスドラマの人気原作者として、大味でご都合主義な、いわゆる2時間ドラマ的な作風というイメージを持ってしまっている。
ミステリそのものに縁遠かった当時ももちろん、その後ミステリを読み出してからも手に取るのは新本格以降の作家乃至はその影響下にある人たち、さもなければ一気に遡って横溝・清張ばかりで、そこをつなぐミッシング・リングである二大巨頭は今日でも縁遠い存在だ。

だがそんな私でも、西村家と山村家が隣同士秘密の地下通路で繋がっているというゴシップじみた話を聞いたことがあり、今回はその真相が明らかにされるという。また、同じ京都から、京都大学推理小説研究会がその後新本格の梁山泊と化し多くの才能を輩出していること、その代表格ともいえる綾辻行人小野不由美がやはり夫婦そろっての人気作家であることから、もしやそこに日本ミステリ界にとって決定的な、なにか歴史的なつながりがあるのでは!?と何気にワクワクしつつテレビに向かう。

内容は、純文学に未練のある西村が、山村との出会いを通じ“娯楽小説”に目覚めていくのが物語の主題だった。いつまでも賞を取れない山村が、私の理解者は読者だと言い訳をし、西村が、純文学なんてクソ喰らえと同調しながら、どんどん有名になっていく。途中、純文学を続けていた友人の、貧困の末の悲惨な末路が描かれて、二人の“娯楽路線”が正しいものであったと演出上は強調されるのだが、結局は美紗の“賞が取れないコンプレックス”は最後まで晴れることなく、ドラマに暗い影を与えている。

家庭のある山村と西村の関係は、もちろん反倫理的な何がしかがドラマで描かれるわけではなく、『ふたりは同じミステリ界を戦う戦友』という関係が強調される。むしろ前半で、料亭で口づけにおよばんとしたその時に、仲居さんが入ってきてズッコケ、みたいな調子で、このネタは“おもろいふたりのエピソード”として消化されようとしている意図が見えた。

西村京太郎、山村紅葉をはじめ、登場人物の殆どが存命なのだからその内容は当然だとは思う。そうは思うが、ファンレターを送ってきた女性に会いに京都まで出かけたり、子供が居ると知りながら近所に住まうなど、西村京太郎という人物も相当変なのに(番組の要所に出てくる本人も、やはりどこか変だ)、内藤剛司演じる西村は、朴訥で当たり障りの無い人物として描かれていて、終盤の謎の同居や、美紗の前でホステスのパトロンになることを宣言する無神経さ、葬式での奇行などのシーンも、もっとエキセントリックな人物として描かれていれば説得力もあったろうにな、と思った。

一方、浅野ゆう子は素晴らしい。おなじみのカツラを一人着脱するシーンの倦怠感。対して人前に出たときの弾けぶりを見て、山村美紗の本質が、作家というよりも“女流作家を演じる女優”に近かったのではと思わせる。

後半、新本格ムーブメントの台頭(編集者の口から語られる、唯一新本格ファンがニヤリとするシーン)におびえ、京太郎の若い愛人に嫉妬した美紗が、喘息の発作にも襲われ孤独な夜を過ごす。すると思いがけず早く帰ってきた京太郎からの電話(結局、愛人とは関係をもたかなった、という説明)に、部屋着のまま飛び出し、件の廊下を渡って京太郎の部屋まで行ってしまうそのシークエンスに、構成の妙と浅野ゆう子の渾身の演技があいまって、まるでジーナ・ローランズ演じる老女優の孤独のようなものを感じ取ってしまった。

この場面のためだけにも、もう一度、関係者の問題がクリアになった頃合に(笑)再度映画化してもらいたいと思う。できれば美紗は浅野のままで、監督は大林宣彦がいいんじゃないかなあ。

これを機に、山村美紗を何冊か読んでみようかなと思ったが、しかし364冊あって代表作ってなんだろう!?amazonで検索したら、マーケットプレイスで1円で売ってた。1円てはじめて見た。

劇中に出てきた、山村美紗のトンデモトリック

『被害者は10円玉を握り締めていた。何のダイイングメッセージ?』

 答え→犯人は、宇治平等院に関係がある!

・・・1円・・・せめて10円で・・・ orz