ダンボールハウスボーイ

乱雑に置かれた段ボールの箱。そこにいるのは、巨大なビルに似つかわしくない、“若者たち”。
六本木のライブドアでその日出会った彼らは、やっぱりオン・ザ・エッヂ時代に渋谷で出会った人たちと良く似ていて、若者らしい自信のなさと、相反するようだがその若さへの過信を同居させたシニカルな明るさに満ちていた。

10年前、南青山でよく見かけた信者も、やっぱりいつも“シニカルな明るさ”に満ちていた、ような気がする。それは超越した修行者のそれでも、狂人のそれでもなく、普通の、楽しげなサークル活動でもしているような笑顔だった。

ある朝、通勤のために広尾駅に行ったら、入り口に駅員さんが立っていて、『誰かが毒を撒きやがった』と苦々しげに語った。彼らがやったんだ、とその時は思わなかった。誰かが彼らを嵌めるためにやったんだ、と、そのときは思った。その後、新聞やテレビで報道が加熱し、マスコミが殺到し、やがてあの車の行列が富士の裾野に向かった時も、どこかしら腑に落ちない、ちぐはぐなものを感じ続けていた。

果たして、あの段ボールの人々に、これほどまで社会というものが騒ぎ立てるほどの価値があるのだろうか。

テロリズムが、貧困の中か生み出されるプアな兵器として、対立した社会を揺るがしうるというリアリティのある911以降の現在ならともかく、10年前の彼らに対する社会の反応はテロリズムに対する恐怖の過剰反応とは異なっていたと感じる。

そこには、大人が若者の“シニカルな明るさ”に苛立ち、その幼稚さを殊更暴き立てる暴力的な意志があったと思う。テレビや新聞のエライ人が、教団内部の“疑似国家”を、あたかも敵戦国の解説のように語るとき、たかが段ボールハウスのなかの“組織ごっこ”に、何をそんなに熱を上げているのか、と白けた。

巨悪というものは、従業員が何千、何万といる企業や結社が、組織ぐるみで行うことで、そこでは役職や肩書きが重大な意味と権限を持ち、人の命のいくつもがその前に切り捨てられるような価値を持っているのではなかったか。

むしろ、その価値こそが実は幻想で、たいそうな大会社といえども、社長だの重役だの実は狭い社会でのゴッコ遊びに過ぎないと、あの段ボールの若者たちは日本の社会の実態を暴いてしまったのではないか。

法律上の制度はともあれ、IT企業の“社長”が、自ら“社長”という肩書きを誇示し、“社長日記”まで公開してその役割を演じようと躍起になる姿を見ると、彼らがあたかも「既存の企業や国家の“社長”なんてこんなもんだよ」と揶揄しているかのように思える。

だけれどそれは“キャッシュフローとIRの技量”の誇示にほんとうは過ぎなくて、世の中にはおいしいおにぎりを作り続けている社長もいて、その社長は社長として、それを従業員やお客さんに対して誇りにすればいい。

なのにマスコミは『ホリエモンの取り巻きは金の亡者ばかり』と言いながら、かつてはその金のネタに強烈な嫉妬を感じ、かつ若い世代のへの攻撃性を隠しながら、あてこするような扱いで『IT長者』を、勝ち組だ、セレブだと持ち上げて来た。六本木ヒルズだって、本当は店子の楽天やYahoo!やライブドアなんかより、大家の森ビルや地権者のテレビ朝日のほうが全然勝ち組なのに、そんなことは誰も言わない。

こうして段ボールの若者が、段ボールの中身のまま、周りの用意した舞台にどんどんあげられ、いい感じに嫌われた時点で落とされる。そしてまたチグハグで大仰な『事件の真相究明』が、連夜マスコミによって伝えられる。ペーパーだけの取締役や、たんなる友達の重役が、なにか重大な事件を奸計した黒幕となり、恐怖映画のサントラをBGMにその顔が電波に乗ることだろう。

だれが、その娯楽を望んでいるのか。だれが、この生け贄を必要としているのだろう。