あのころ、南青山で

テレビに映し出される六本木ヒルズ。ヒルズ族、勝ち組などと言う呼称を添えられ、現代日本の「階層社会」にルサンチマンを植えつけるイコンとして、マスコミに祭り上げられたこの聖堂に、今、尋常でない数の検察の捜査員が吸い込まれていく。落ちた偶像の姿を歓喜ともとれる熱狂で伝えるかのような現場リポーターの声を耳にして、ふいにある既視感に襲われる。

90年代の半ば、住んでいた部屋から5分の場所に、オウム真理教青山総本部はあった。ガラス張りの、曲線をなす概観は、その大きさこそ違え『スマートな新しいお金持ち』を象徴する律儀なスマートさが六本木ヒルズに通じていた。

しかしそこで経営されていたパソコンショップは、スマートさとは程遠く、段ボールが無造作に山積みされている有様で、夜などに前を通りかかると、閑静な青山の住宅街に、そこだけ秋葉原を切り取ってきて放置したような空虚さだけが、コンビニの明かりのように仄かな光を路上に投げかけていた。

しかしある日を境に、その路上の様子が一変する。何台もの中継車が路上に連なり、無数の脚立が歩道に並ぶ。カメラマンとレポーターとディレクターが何百人も(誇張ではない)建物の周りを取り囲み、近所のコンビニの棚からは食料が消えうせた。

彼らは、逼迫していたのだろうか?報道しなければならないニュースが、そのとき、そこにあったのだろうか。

否、彼らは待っていたのだ。このスマートなビルの中にいる、なんだか胡散臭げな連中が、今に尻尾を出して何かをしでかしてくれることを。

何日も何日も、昼も夜も、彼らはそこに居続けた。コンビニにはいつの間にか充分な食料が補充されるようになり、彼らは路上でおにぎりを喰らい、カップラーメンを啜った。彼らには、獲物を追うような緊張感はなかった。ただひたすら、罠に嵌った小動物が堪りかねて外に出てくるのを待っているような、鷹揚な余裕と、不遜な苛立ちに満ちていた。

ある夜、それは起こった。窓を閉めた部屋からもはっきりと聞こえる、異様な喚声に、慌ててテレビをつけてみる。わずか徒歩5分の距離で、衆人環視の元で行われた殺人。

あの喚声に、果たして歓喜の響きは混じっていたのだろうか。あれは、誰かによって望まれた獲物の断末魔だったのだろうか。

例のバファローズ買収騒動の直前だったか、六本木にライブドアを訪ねたことがある。最新鋭の建築技術を駆使した、というよりも、むやみに金を使ったという印象のビルの中、オフィスに踏み入れると、そこは安っぽい机だけが置かれた簡素な受付に、段ボールから無造作にはみ出したソフトウェアの箱が積まれているという、なんとも空虚な空間だった(当時は壁にロゴも張られていなかった)。それはあの、南青山にぽっかり空いたパソコンショップにとても良く似ていた。

【この項続く】