映画批評のコトバ
映画レビューってのは悪口でもいいんだよ
金出してわざわざ交通費かけて見に行ったんだよ。
映画の製作者側がどんなに苦労して作ったかどうかは関係ないよん、要は出した金に匹敵する作品かどうかだよん。
○○○は1800円出してまで、見るに値しないと言ってる。Yahoo!掲示板 某作品レビューより
1 誰も知らない
2 血と骨
3 下妻物語
4 父と暮せば
5 隠し剣 鬼の爪
6 理由
7 スウィングガールズ
8 ニワトリはハダシだ
9 チルソクの夏
10 透光の樹キネマ旬報 2004年度日本映画ベスト10
先日友人と話をしていて、ひょっとすると私たちが『最後に映画評論の洗礼を受けた世代』なのではないかという話になった。確かに80年代後半〜90年代初頭、『シティロード』『リュミエール』『カイエ』ら雑誌・書籍が示した『映画の観方』に私たちの世代の映画ファンは多大な影響を受けている。それがミニシアターブームを呼び、あまたの『名作』が日本に紹介され、また一方邦画においても、黒澤清、周防正行ら『作家』の登場、深作ら『活劇』の再評価、黒澤明・溝口健二以外の『埋もれた日本映画』の発掘など、現在常識とされる映画の『教養』は、この時期に作られたと言っても過言ではないと思う。
他方、この『教養主義』に対するアンチテーゼとしてあらわれてきた、いわゆるB級・ガジェット映画への偏愛を訴える『映画秘宝』的言論もまた、とにかく『映画を見る』行為を愛し、複眼的な論点をもって映画と対峙せよ(さすれば屑もまた愛し)という、頭でっかちな『教養主義』と表裏一体の、きわめて啓蒙的な(表面的な毒舌とは裏腹な)振る舞いであったと認識している。
ともあれ、冷房も効かない名画座に『通わせていただいて』、それこそ餓えを癒すかのように映画を『観させていただいた』世代にとっては、快適きわまりないシネコンで映画を『観てやる』今の観客は・・・と昔話をしても始まらない。映画はとっくに『消費されるコンテンツ』になってしまったのだ。
そんな時代に、映画批評はどんな言葉を持てばいいのだろうか。どのような場所で、どのように発言すれば、映画と観客にとってより幸福な場が持てるのだろうか。
私は今の『日本映画に対する批評の言葉』の現状は最悪だと思っている。
職業評論家は自ら主催する雑誌という牙城に立てこもり、身内に賞を与え合う。
ネットにはレビューと称した、『教養主義』と『秘宝主義』の入り交じった、対象と自分だけの世界観の発散が、議論に昇華せずにただただ苛つきと軋轢とだけを生み出して行く。
その一方で、まちがいなく悪化の一途をたどる日本映画の製作状況のなかで、奮闘する若手〜中間層のクリエイターに、まともな評価が下されることはない(ヒットしなければ無視され、ヒットすれば『テレビのように幼稚』と罵倒の嵐)。
例えば、BooksExciteのような、宣伝を離れた『現場のプロによる』、日本映画をとりまく世界を俯瞰するようなサイトであるとか、id:endingさんやid:solarさんのように、ネットを中心に愛をもって対象を語る(偏愛でもいい 笑)評論家があらわれないものかな日本映画にも!と思ったりする。かつての山根貞男氏のような。
ううん、昔話するなら自分でなんとかしろや!という声が聞こえてきそうですが。
すこしづつ、力ある素敵な言葉を集める事からはじめたい。
ただ、作品と自分の相関関係に対して、
客観的な視点をもった職業評論家が、
一体どれだけいるのだろうかは、とても気になる。
いつしか、感覚が鈍化して、ただ神の視点をもった自分と、
評論されるのを待つ作品ども、という狂った妄想を
当然のように考える評論家が席巻しているのであれば、
まったく擁護することは出来ない。批評の中身についても、思うことがある。
どんなに糞でも、作品に対する最低限のリスペクトがなければ、
客観的に、まっとうな批評なんかできるわけない。
そして、多くの評論家が文章を書く目的を探せば、
批判一辺倒のライティングは、俺には信用が出来ないし、
自分は、そんな文章は、これからも書かないだろう。