『いま、会いにゆきます』

実はこの、同時期に邦画3社で封切られた3本を並べて、『日本の家庭トリロジー』として論じてみようと、気乗りはしないままにこの映画も見たのだが、まずは中年既婚男性には、非常に辛い映画であったと告白しておこう。
で、結論から先に書く。
『いつまでも恋人のように仲が良く、わたしが死んだ後でも、ずうっと愛してくれる夫』
いま、上記した彼女達が理想とする『家庭』像とは、前記2作が興行的に低迷するのを尻目に、この作品が観客を集めているのを鑑みると、つまりそういうことになるのだろう。
映画に登場する、親子三人が暮らす小さな家は、周囲に人家もない、完全に外部との接触を断ったような孤立した小さな世界だ。そこであくまでも自分に快楽を与えてくれる家族(常に新鮮な恋愛体験を与えてくれる夫、従順で可愛らしいだけの子供)につつまれ、自分が主婦として『ちゃんとやっている』証は、『朝食の目玉焼きとトーストを上手に焼き、夕食にカレーライスをつくる』ことでしかない、そんな薄っぺらで貧しい生活描写は、この映画の製作状況をとりまくあらゆる貧しさに起因するものだと指摘はできるのだが、それより問題なのは、その『生活に対する貧しい描写』を、この映画に感動したという大多数の観客(おそらくほとんどが若い女性)が、まったく意に介していないであろうこと、いやむしろ、その貧しさをリアルに感じ取ってしまう、彼女達自身の生活観の貧しさこそが、この映画を支えているという点だ。
この『家族』には、周囲との摩擦もなければ、親兄弟との確執もない。日本の民衆が積み重ねてきた歴史の中での様々な情念や想いのようなもの、そういった諸々のしがらみは『一切なかったこと』として、閉ざされた部屋で交わされるクリーンで快適な『純愛』。
それは、現代の女性にとっての理想郷であり、その主人は妻である。ことここにおいて完全に『家庭』における主従は逆転したのだ。
劇中、自分の消失が近いことを悟った妻が、夫を密かに慕う同僚を呼び出すシーンがある。そこで妻は『私が死んだ後、夫が他人を愛することが許容できない』と泣く。客席からもっともすすり泣きが聞かれる箇所だが、しかし同時に彼女は、夫が『家庭』を守り続けることも要求する。主たる自分が消失した後も、自分を愛し続けたまま、自分の愛した『家庭』の存続を願うこの妻は、私の目にはとんでもなく傲慢に映る。
もう、仲村トオルのように、喪失から逃れる為に自死することすら、現代の女性はパートナーに許さないのだ。

快楽としての恋愛至上主義が、過去や未来への想像力を駆逐し、人間に対する思考力を奪う。
そして、クリーンで空虚な『きみとぼくの純愛』物語だけが、『感動』という、最も安易な感情と結びついて爆発的に伝染してゆく。人間の営みの煩わしさを『煩わしい』と切って捨てる傲慢さもまた、感情の営みだ。
その流れは間違いなく、来年製作されるであろう『電車男 映画版』に引き継がれることになるだろう。