『海猫』

『血と骨』が、理不尽な暴力をふるう父親と、それに耐える母親という前近代的な家庭の崩壊を描いた映画だったとすれば、この『海猫』は、その象徴的な『父親』亡きあとの日本の家庭で起こった悲劇であると、対置することが出来る。
映画の舞台は、80年代(原作では70年代)の北海道の漁村にある漁師の家であるが、ここには既に『父親』がいない。朝食にトーストを食べ、函館という都会からの土産であるフランスパンに目がない、と描かれる母親は、すでに前近代の呪縛から解き放たれ『耐える母親』の面影はない。主人公(嫁)の夫である長男(佐藤浩市)は、それでも失われた前近代のモデルを模倣するように、青年団の実力者として、模範的な漁師として君臨する。母親や弟を通し持ち込まれる都会という近代的な外部に拮抗し、あくまで粗暴で伝統的な『父親』として『家庭』を支配しようとする彼の内部は、しかしすでに社会から『父親』という象徴が失われている以上、有効な動機を持ちえておらず、そのことは彼を不安にさせる。暴君としてはあまりにナイーブな彼の妻への暴力は、従って家庭に安定をもたらすことはない。『血と骨』で金が向いの家に囲う愛人と、この長男が函館で密会する愛人との意味合いも180°異なっている。前者は愛玩物、後者は母親がわりである。
(『血と骨』の愛人役は中村優子濱田マリという、どちらも華奢な女優。『海猫』の愛人は豊満な小島聖。ついでに正妻も見比べると、鈴木京香伊東美咲という、対照的なキャスティングがされている)
恐らく金であれば、もろとも漁船の櫂で殴り倒し、海猫の餌にでもしたであろう、妻と、妻と密通した弟に、長男は手を下すことはできないのだ。自分が守らなければいけない『家庭』というものが、ほんとうはとっくに必要とされていないという孤独を、雨に打たれる佐藤浩市は見事に演じている。
この伝統と現代の間で引き裂かれる人物像は、かつて青年監督として『意欲的な異端』を期待されていた立場から、『正統な日本映画』を背負うベテランへと移行を遂げようとする森田芳光の二面性を象徴しているようで興味深い。この映画においても、ミムラ蒼井優という若い世代の視点を導入することにより、伝統的な日本映画の間口を広げようとする教育的配慮(笑)が設けられるなど、腐心の跡は見受けられる。
しかし残念ながら、彼女達世代には、すでに『守るべき家庭がある』という幻想すら、想像の範疇外なのだ。従って、森田の努力むなしく、彼女達は映画館には押しかけなかったのだが、では、歴史から切り離され、物心ついたときから『きみとぼく』の人間関係しか持ち得ない世代にとって、『家庭』とは何なのか。