『血と骨』

崔洋一は暴力映画の第一人者と思われていそうだが、実は作品中に直接的な暴力描写はあまりなかったりする。むしろ、暴力に代表される人間の営みの混沌と緊張で画面を埋め尽くす手法が、暴力的、な快感として観客に刷り込まれているのではないか。
とはいえかつて『Aサインデイズ』で見せた、暴力で歴史が彩られていたのではない、歴史が暴力で作られていたのだといわんがばかりの、バンドとチンピラと米兵がひたすらふるいあう『暴力』、あるいは、普通の小市民にしか見えない中年男の『ブチ切れ』を執拗に描いた『マークスの山』で見られた『崔洋一映画』をこそ、もういちど見たいものだと願ってきたファンにとっては(すみません、とうとう『クイール』は見ませんでした 笑)、新作『血と骨』は正に待ちに待った『崔洋一的暴力映画』の真髄!と言える。

なんといっても『暴力』を体現するビートたけしが素晴らしい。なにせ彼は登場時間のおよそ8割は手に棍棒を振りかざしている!(残りのうち半分は女を抱いていて、半分は棍棒で女を殴りながらレイプしている 苦笑)
さらに、その暴力はすべて、身内や弱い立場の者たちに向けられる。妻をレイプし、息子や娘を殴り倒し、家を破壊する。職人の顔に焼けた石炭を押し付け(もちろん押し付けられるのは北村一輝!)、金を貸し付けた工場の門を丸太でぶっ叩く。
原作にはあったという外部の敵、ヤクザたちとの抗争はこの映画にはなく、この金俊平という男はもっぱら内部に暴力をふるう『DVオヤジ』として息子の目から描かれる。
つまりこの映画の主人公は、決してヒーローなどではない、1つの家庭にとっての理不尽や、災厄そのもの、という存在なのだ。あまねく1950年代の日本の『家庭』に存在した『理不尽』という概念。
しかし、暴力をふるいながらも、事業を拡大し成功しつづけるこの父親を中心に、『家庭』は存在しつづける。それが『血と骨』の絆なのだと言ってしまうと短絡が過ぎるが、戦後の復興の蔭で日本人が必要悪として利用した様々な『暴力』や『理不尽』の象徴が、この海の向こうからやってきたひとりの男である、という見方は出来るだろう。
映画の最後、もはや『暴力』が必要とされなくなった時代にさしかかると時を同じにして、北朝鮮に移住してしてしまう主人公とは、『戦後は終わった』というスローガンの元、日本の社会から『なかったもの』として記憶の底に封印された、様々な『理不尽』のことなのではないか。クリーンで近代的な日本という『概念』を磐石なものとするために、北に対置された『理不尽』という『概念』が、何の疑問もなく受け入れられる今の日本とは、かつての暗い、血みどろの『家庭の歴史』を忘却した社会なのだと、この映画は突きつける。