世界の中心で、愛をさけぶ

世間に遅れること数ヶ月、今更ながら観るのだから、世間様とはちがったひねくれた感想でも残してやろうと(この場合は絶賛しようと)鑑賞ポイントをあらかじめ想定しておいた。
前情報で『残された方の人たちのパートが大量に追加された』と聞いていたので、くだらん少年漫画レベルの妄想話(とりえのない主人公が、クラスでいちばんの美少女に一方的に好きになられて云々とかいうやつ)である原作部分はさておいて、この『喪の仕事』パートこそがこの映画のほんとうの見所であって、やはりこういうのをとらせたら行定監督はすばらしい!といったところかなと考えつつ劇場にむかいました。
いや実際、そういう映画が撮りたかったんだと思う。現在パートは寒色で、過去パートを暖色で描き分け、死というものが死ぬ人の生の中にあるのではなく、残った人にこそ死はまとわりつくのだ、というテーマはよくわかった。
でも計算違いは、大沢たかお柴咲コウのメソメソ顔が実に煩わしく、陰影を強調した画面を通してみると本当に嫌な気分になってくる他方で、妄想パートの長澤まさみが、全盛期の広末涼子を凌駕するほど魅力的だったおかげで、燦々と輝く夏の光を捕えた篠田昇キャメラマンのつくる絵の中で、これでもかとヒロインを追いかけまくりのちょっとエッチな行定節が全開になってしまったこと。そのあまりの生命力が、ちゃちな妄想を、完璧な妄想(映画心あふれる青春映画→好きな女の子主演で撮ってみてえ→69の村上龍状態)へと昇華させ、終わってみれば死体の彼女より、彼女の肢体のほうが印象に残ってました!(ヒロインの足への固執は異常。スクーターからはみ出す足、路面電車の駅から踏み出す足、墓場でヤブ蚊に刺されるだろその短いパンツ、はじめて主人公のとなりに座ったときに、ミニスカートを気にする仕草は、GOで柴咲コウがやってた)とくだらない駄洒落はともかく、『一緒にいられてよかった云々』という、最後の彼女からメッセージが、生きてる人(長澤)から、死んでしまった人(大沢、柴咲)への弔辞に聞こえてしまうという逆転までおきたのは行定監督の勇み足ではないかと思うが、それを女性ファンが支持して大ヒットにつながったかどうかはアヅカリ知らぬところであります。

あと、山崎努は、終始口をモゴモゴさせてたな。
http://d.hatena.ne.jp/beach_harapeko/20040522#p5