反社会学講座 第24回 こどもが嫌いなオトナのための鎮魂曲

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子育ての社会的な目的というのが、前近代的な社会では『跡継ぎをつくる』とか『富国強兵産めよ育てよ』など社会から個人への要求として存在していたので、昔の子育ては“困難”はあったろうが“困惑”はなかったのだろうなと思う。

今ははっきりとした社会的な要求としての子育ての目的がないので、子を産み育てるという判断は、親にゆだねられていたりする。

ただし、具体的な『社会的に望まれている子ども像=家をつぶさない才覚、強い兵隊として役立つ肉体』みたいなものがないなかで、なんとはなしに“よい子”幻想みたいのがあって、それは『すげえ勉強ができて末は東大一流企業』とか『超有名芸能人かスポーツ選手』みたいなバリバリの上昇志向はむしろ親のエゴかパロディと蔑まされ(実際成功した人は妬みと羨望の両面の視線に曝され)、むしろ『病気ではない』『落ちこぼれではない』『犯罪者でない』『目立たない』など、『〜ない』という曖昧に型にはまった“理想のこども像”であったりする。

『みんな』という『曖昧な社会』がもとめる『あるべき子育てストーリー幻想』みたいなものは一方で、感情的で苛烈な責任を、それを遂行しないこどもとその親に押しつけてくる。少年法を改正しろとか、親に嫌がらせをするとか、こどもを育てられん親から子どもをとりあげろとか。

そこまでこどもの責任が親にあるというなら、手に負えないガキになっちまったら自分で始末する権利くらい親に与えたっていいんじゃないかと、そんな思いが、ちょっとこの文章読んで浮かびました。

暴言ついでにいうと、赤の他人のこどもが、よそのこどもを刺そうがナニしようが、いちいち騒ぐこたないんじゃないか。ちょっと眉をしかめて、さあ明日からは仕事だ、うちのガキはもう飯食ったのか、イジメとかあったらトーサンに言えよ、ガハハ(ビールをグビー、父さんお酒臭いよ!近寄らないでよ!)くらいのが健全でいいんじゃないか。

そもそもこども嫌いで、現在も将来にわたってもこどもなんかいらんという向きだって、それならまったく関心なんか向けないのがよろしいよ。やっぱり世の中、ロリとショタとアダルト・チルドレンばっかなのでこどもの話には『みんな』過剰に反応してしまうんですかね。

今回、この項のつづきだったりする
http://d.hatena.ne.jp/beach_harapeko/20040612