昨日のエントリーにコメントをいただきました

■紺屋 『ホームページってものは管理人が「あえて一般に公開している」ものだから、プライバシーには当たらないのではないでしょうか。紙で出版された日記は作者のプライバシーに入りませんよね。それと同じだと思います。ですから、そのテキストが引用されてしまうのは当然かと思います。』

『あえて』という自覚が、はたして小学生の女子にあったのか。
一方で『低年齢化するネット上でのトラブル』に警鐘を発する記事を書き、コミュニケーションの能力の未成熟な児童には十分な指導が必要だ、などともっともらしいことを言うマスコミが、まさに《「あえて一般に公開している」ものだから》という正論を無批判に盾にとって、ネットの別の側面である『個人の発言が思いもよらぬ伝播力を持ち、それが時にその個人に“暴力”として跳ね返ってくるという怖さ』を、暴力的な報道でもって示しているという状況に身震いします。
私は少年法というものにさして関心はありませんが、少年法の精神とは、名前や住所を曝さないとう表面的なことではなく、彼ら・彼女らが未成熟であるからこそ、『責任の所在』を本人にのみ帰着させない、そのボーダーラインをどこかに引くべきだ、という主張であって、それはすなわち、少年犯罪を引き起こす責任者は、オトナ社会なのだという言外の批判も含んでいるのだと思います。
であれば検証されるべきは、ネットにおけるコミュ二ケーションが、いかに短絡的に感情と感情のぶつかりあいになり、無成熟な精神であれば、容易に殺意にまで結びついてしまうのかという、オトナ社会への汎用性をふくんだ『構造』の検証であるべきで、一児童の素顔をさらし、ましてやそのキャラクターを『消費』してよいものだとはとうてい思われません。
そうした少年法を『ぬるい』と批判する意見もあります。そう思いたくなる事例も見聞きします。でも、ボーダーは必要なのです。子供はオトナが守らなければいけないんです
凶悪な少年犯罪が増えてるじゃないか、という意見もあるでしょう。
少年法に守られていることを知っている、小狡いガキがいっぱいいるよ、という方がいるかもしれません。
そうです、子供はそもそも凶悪で小狡くて、しかも馬鹿なんです。だから、粗暴で短絡的な事件を起こす。でもやっぱり、彼らは子供なんです。
少年法を改正しようという意見の裏側には、子供のそういう面を許容できない、オトナ社会の不寛容を感じます。規格外の子供は、子供の枠組みから排除しようといういやなかんじ。
マスコミが、今回その流れに一斉に同調し、この女の子を【規格外の子供】として特殊化しようとしていることに嫌悪感を感じています。
そしてその背景にはまたあの、『自己責任』という言葉があります。
《「あえて一般に公開している」ものだから》、曝されるのも『自己責任』ということです。
犯罪を犯したのだから、自己責任をとれ。
成人であれば当然のことですが、日本ではまだ少年法が適用されるんです。責任を全面的に押しつけていいはずはないんです
個々人の意見はともあれ、マスコミには冷静で公平な視点を持ってほしい。
私の言いたいのは、そういったことです。